人はこの世のものとは思えないほどの美しさに触れると、「この美しさを永遠にとどめて欲しい」と願ってしまうものなのかもしれません。
17世紀から19世紀にかけてのヨーロッパには、変声期前の美声を保つために去勢された者たちが存在しました。
生殖機能と引き換えに天の調べともいえる美声を備えさせられ「カストラート」と呼ばれた彼らは、どのような存在だったのでしょうか。
神にも去勢の歴史あり
カストラート(castrato)は、イタリア語で「去勢をされた者」を指します。
去勢自体の歴史は非常に古く、古代シュメールにまで遡ります。征服や奴隷化、または懲罰の手段としても行われました。
中国においては宮中の雑用を行った「宦官」が有名です。
宦官について調べてみた【中国史の陰の主役】
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神話においても、古代ギリシアの詩人ヘシオドスによる『神統記』では、妻ガイアの怒りを買って末子のクロノスに去勢される天空神ウーラノスが描かれるなど、去勢はあくまで歓迎されざるべき行為とされていた事が分かります。
しかしその一方で、初期ビザンツ帝国には「音楽に携わる宦官」が存在しており、西暦400年頃のコンスタンティノープルでは宦官の合唱指揮者ブライソンが、皇后アエリア・エウドキシアに仕えていました。
9世紀頃までには宦官の歌手はよく知られるようになり、13世紀初頭の第4回十字軍によるコンスタンティノープルの略奪まで、その地位は維持されました。
教会内では女性は発言禁止、歌えるのは男性だけ
一旦は途絶えたかのように見えた「去勢された歌手たち」は、その後、約300年を経てイタリアを中心に再び脚光を浴び始めます。
キリスト教社会において彼らが重用され始めたのです。その理由は「聖歌」です。
キリスト教聖歌の多くは、その起源を中世にまで遡ります。しかし聖書に書かれた「婦人は教会では黙っていなさい」といった記述を背景に、女性が教会内で歌うことは許されていませんでした。
そのため礼拝の聖歌は、全て男性が歌う必要があったのです。
ローマでは教皇付きの聖歌隊が6世紀には存在しており、8世紀には聖歌隊の学校も作られましたが、生徒は少年と成人男性のみでした。そして中世ローマ・カトリックの礼拝で歌われた単旋律のグレゴリア聖歌も、その音域は男性が歌うのに適したものでした。
ところが時代が下って複雑な構成の曲が生まれるようになると、聖歌の音域は低音の歌い手だけではまかなえなくなり、16世紀には高音域の歌手も必要とする「多声による聖歌」が最盛期を迎えます。
変声期前の少年と、成人男性のファルセット(裏声)による高音域を含んだ、複雑で美しい曲が人気を博するようになったのです。
教皇の理性も狂わせるほどの「美声」
しかし、ここで疑問が生じます。そのまま少年と成人男子だけで聖歌隊を構成しておけば、音域的には問題はなかったはずです。
ところが少年のボーイ・ソプラノの声質と、カストラートのそれとは異なっていました。
少年の声は成長と共に音域も広がり美しさも増しますが、カストラートに比べて声量や持続力といった力強さに欠けたのです。
一方、成人男性のファルセットは限られた高音域までしか有せず、声質にも難があるとされました。
しかし、カストラートの声質は艶美で且つ力強さを有していたため、教皇クレメンス8世を始めとする当時の教皇たちの心を強く捉えたのです。
こうして16世紀末にはローマ教皇の聖歌隊にも公式に入隊したカストラートですが、当初は偶発的な存在であったと言われています。
変声期直前に事故や病気といった事情で去勢状態となった少年が、変声期を経過しても声質を保っていたことから、後に美声の男児をわざと去勢するという非情な行為が、教会と社会で容認されていったのです。
カストラートにすべく去勢された男児の数は、多い時でなんと年間4,000人以上でした。年の頃は7~11歳で、口減らしや金銭目的で親に売られた者も少なくありませんでした。
麻酔の代わりにアヘンを用い、不衛生な環境で行われた手術で命を落としたり、音楽の素養がないのに去勢されるなど、犠牲という言葉だけでは足りないほどの悲惨な状況だったのです。
時代の寵児、稀代のカストラート「ファリネッリ」
聖歌を歌うことを目的につくられたカストラートでしたが、17世紀から18世紀にかけてはオペラにも起用され、大変な人気を博するようになります。
中でも18世紀イタリアのカストラート・ファリネッリは、3オクターブ半の声域を持ち、招かれてイギリスに渡った後は、その美声でヨーロッパ各地の女性たちを失神させるほどでした。
民衆を熱狂させた彼は、1737年にはマドリードに招かれ、フェリペ5世のお抱えの王室歌手として寵愛を受けるようになります。
ファリネッリの歌う曲は王が好んだわずか4曲のみで、彼は王の寝室で毎晩それを歌い、膨大な報酬を与えられました。
このように、時代の要求に応じて大成功を収めたカストラートもいた一方で、おびただしい数の少年たちが犠牲になり続けていたのです。
カストラートの終焉
宗教的権威、大衆、王室と、ヨーロッパのあらゆる層を魅了し続けたカストラートですが、18世紀後半を迎えるとその様相に変化が訪れます。
この時代特有の思想や戦争などによる社会的不安定さが、カストラートの存在にも影響し始めたのです。
特にカストラートを受け入れなかったフランスでは、革命後のナポレオンがヨーロッパでの去勢行為を廃止する方向に動きました。
ようやく男児に対する去勢が非人道的であるとみなされ、カストラートも次第に疎外されるようになったのです。
1878年には教皇レオ13世が教会によるカストラートの新たな雇用を禁じ、1903年の新教皇ピウス10世による発布により、カストラートは正式に教会に認められなくなりました。
その後、最後のカストラートとされるアレッサンドロ・モレスキが1913年3月に引退、1922年に死去したことで、人々を熱狂させたカストラートの歴史は幕を閉じたのです。
おわりに
信仰と芸術は時として人々を慰め、狂わせるものなのかもしれません。
カストラートの存在は、人間の道徳と倫理感が時代によってどれほどあやふやなものなのかを、現代の我々にも問いかけてくるようです。
その歌声に思いを巡らせつつ、今はその役割を終えたことに安堵を覚えずにはおれません。
参考文献:西南女学院大学紀要 Vol.18, 2014「カストラートの光と陰 」金谷めぐみ/植田浩司
大学生の時に観た映画『カストラート』で、いろんな意味で衝撃を受けました。
でも素晴らしい映画だったと思います。
中学生時代の家庭教師の先生が、その後東京芸大に入り、授業で貴重なカストラートのレコード音源を聴いたと教えてもらった事があります。
歴史上、現在では褒められた行為ではありませんが、至高の芸術への熱意は底知れないと感じました。