啓蒙思想を世に広めた思想家の一人、ルソーをご存じだろうか。
彼の思想はフランス革命に大きな影響を与え、民衆は王政からの解放を求めて起ち上がり、今日の民主主義社会に繋がっている。
高校で世界史を選択していれば、必ず名前が挙がる人物である。
しかしルソーには、その華やかな功績からは想像もつかないような、意外な一面があったのだ。
家庭環境に恵まれなかった幼年期
ジャン=ジャック・ルソー(以下、ルソーと呼ぶ)は、1712年6月28日フランス語圏ジュネーヴ共和国(現在のスイスにあたる)にて、時計職人の父と、裕福な家庭に育った母との間に生を受けた。
母親はルソーの誕生から9日後に死亡し、父親はルソーが10歳の頃に貴族との喧嘩を理由に告訴され、子供たちを残してジュネーヴから逃亡してしまった。
1722年、孤児同然となったルソーはジュネーヴ郊外のボセーに住む牧師に預けられるが、その牧師の妹から何かと理不尽な理由をこじつけられ、度々体罰を受けていたという。
この体験は、後に国家権力を相手に立ち向かう凄まじいほどの反骨精神を育てたと同時に、暴力によって感じる快感、いわゆる「マゾヒズム」に目覚めるきっかけとなった。
1724年、ジュネーヴに戻ったルソーは、徒弟奉公先の横暴な彫金師から日々虐待を受けたことで次第に虚言が増え、悪事や盗みなどの非行に走る不良少年となっていく。
スキャンダラスな青年期
1728年、ルソーは奉公先の親方から逃げ出し約1年の放浪生活を送るが、やがてサヴォワ領コンフィニョンにてカトリック司祭の保護を受け、落ち着き先としてヴァランス夫人を紹介されることとなる。
このヴァランス夫人との出会いが、彼の人生に大きな影響を与えたのだ。
ヴァランス夫人はルソーを引き取り、やがて二人は一緒に暮らし始める。
当時、ヴァランス夫人は29歳、ルソーは15歳であった。
お互いを「坊や」「ママン」と呼び合う二人は、初めこそ親子のような関係であったが、次第に肉体関係を持つ愛人となっていった。
1737年、ヴァランス夫人が新しい愛人を家に連れ込んでいることを知ったルソーは、次第に夫人と距離を置くようになる。
いつしか二人の男女の関係は冷め切り、ルソーはヴァランス夫人の元から独立すべく、単身パリに向かうのであった。
1743年、サン=カンタンという町で女中として働くテレーズと出会い、恋に落ちる。
二人はこの後、晩年まで正式な結婚はしなかったものの、生涯に渡って添い遂げることとなる。
実はかなりのダメ男だった思想家ルソー
彼は元々うだつの上がらない音楽家志望であったが「人を惹きつける文章を書く才能がある」ということに40代にして気が付いた。
それからというもの、かの有名な「社会契約論」や、「エミール」など数々の名著を執筆するのだが、後世に華々しい功績を残したルソーの真の姿は、品行方正などとは程遠いダメ男であった。
前述のとおり、若いころからマゾヒズムで露出癖があったルソーは、下半身を露出して婦女子の前に現れるなどの奇行を繰り返していた。
露出事件の際、逮捕されたルソーは「こうすれば彼女たちにお尻を叩いてもらえるかも知れないと思って……。」と釈明している。
また、若いころから職を転々としてきたルソーは晩年になっても定職には付けず、細々と写譜の仕事をしながら、常に誰かの世話になって暮らしていたという。(彼の単著は28作品にも及ぶが、当時は著作権が整備されていなかったため、基本的には買い取り制で印税などなかった。)
現代の言葉で言い表すなら、「ヒモ」と呼ぶのがふさわしいだろうか。
ルソーが「教育学の祖」とまでいわれるようになった所以である著書「エミール」は、現代でも教育界では必読書とされているほどの名著であるが、ルソー自身が我が子の教育に熱心だったかと言えば、まったくの正反対であった。
ルソーはテレーズとの間に5人の子どもを作ったが、経済力がなかったために子どもたちを5人とも孤児院に預けてしまったのだ。
これは当時のフランスでは決して珍しいことではなく、年間三千人にものぼる捨て子が発生し社会問題となっていたのだが、悪しき社会慣行であるとは言え「それでよく教育の本が書けたな」と筆者は個人的には思ってしまう。
その後、「エミール」の中で述べた宗教的な内容がカトリックの反感を買い、逮捕状が出されたルソーはスイスへ亡命した。しかし、当時カトリック批判は危険思想とされていたため、噂の広まったスイスでもルソーの居場所はなかった。
そこへ手を差し伸べたのが、イギリスの哲学者ヒュームである。
ヒュームはルソーを非常に気に入り、イギリスへ招いた。しかし、ルソーはヒュームが手配した新居に移動する際、手配役が自分を丁重に扱わなかったことからヒュームに不信感を抱いた。
一度不満を抱くと次々と嫌なことが目につくのはよくあることである。ルソーはヒュームを疑い始め、「自分を陥れようとしている」とまで考えるようになった。
しかし、実際のヒュームはルソーがイギリスで生活できるように、国王に年金支給の嘆願をするなど、あらゆる手を尽くして奔走していたのである。
そのことを知る由もなく、ヒュームを信じられなくなったルソーは、最終的にはヒュームとの絶交を宣言してしまったのだ。
おわりに
数々の世界的名著を執筆したルソー。彼の思想は後にフランスの民衆を奮い立たせ、世界中に広まり、現代の人民主権の世へと繋がっていった。しかし彼の真の姿は、その輝かしい功績からは想像もつかないほど、怠惰や挫折に満ちていたのである。
彼が孤児院に捨てた5人の子どもたちは不幸であっただろう。しかし、ルソーは人権宣言によって多くの人々に希望と幸福をもたらし、多くの子どもたちを救い、現代にもつながる社会の基盤を築いたのだ。
誰かを幸せにする人が皆を幸せにするわけではなく、また、誰かを不幸にする人が皆を不幸にするわけではない。
歴史はいつも、人間が多面的な存在であることを教えてくれる。
参考 :
『ルソー (センチュリーブックス 人と思想 14)』中里良二
『史上最強の哲学入門』飲茶
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