ミリタリー

タンネンベルクの戦いの名コンビ【ヒンデンブルグとルーデンドルフ】

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島でのセルビアオーストリアの対立は、オーストリア皇太子がセルビア人過激派によって暗殺されたことをきっかけとして戦争に発展した。

この戦争はオーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結ぶドイツ帝国、セルビアを支援するロシアのみならず、植民地をめぐってドイツと対立するイギリスフランスも参戦し、やがて第一次世界大戦となった。

両軍の展開

ヒンデンブルグとルーデンドルフ
※中央部の薄灰色の部分がポーランド立憲王国(KONGREsPOLEN)。赤枠で囲ったエリアが戦域図に該当。

フランスとロシアに挟まれたドイツ軍は、戦前より「シェリーフェン・プラン」という作戦を策定していた。これは中立国ベルギー領を突破した主力軍をフランス軍の背後に回りこませて早急にフランス軍を撃破した後、鉄道で主力軍を東部戦線へ移動させ、ロシア軍と対峙するというものである。この時代の兵員輸送の主力は鉄道であった。

対するロシア軍の作戦は、レンネンカンプ将軍の第1軍が東から、サムソノフ将軍の第2軍が南から、それぞれドイツ領・東プロイセンへ侵攻し、ドイツ軍を挟撃して撃破した後、重要拠点であるケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)を攻略するというものだった。

ドイツとロシアが戦争状態に突入すると、ロシア軍はドイツ側の予想を超える早さで動員を完了した。

そして、1914年8月17日、将兵20万からなるロシア第1軍は、東プロイセンへの侵攻を開始した。これに対し、ケーニヒスベルクに位置していたドイツ第8軍は反撃に出るが、部隊間の連携が取れずに大損害を出し、撤退を余儀なくされる。

ヒンデンブルグとルーデンドルフ

ヒンデンブルグとルーデンドルフ
※第8軍参謀長ルーデンドルフ(右)と軍議をする第8軍司令官ヒンデンブルクを描いた絵

ドイツ第8軍は、8月21日にロシア第1軍と同規模のロシア第2軍が東プロイセンへと侵攻したことで挟撃の危機に直面することになる。
この時、第8軍司令官のプリトビッツは参謀総長モルトケに対し、東プロイセンを放棄して撤退する許可を求めたが、モルトケはこれを認めずにプリトビッツを解任した。代りに第8軍に送り込まれた司令官が、パウル・フォン・ヒンデンブルグである。後のワイマール体制のドイツで大統領となる人物だ。

彼はすでに退役していたが、戦場周辺の地理に詳しく、冷静沈着であるという理由で抜擢されたのだった。さらに彼の参謀には、緒戦で抜群の活躍を見せたエーリッヒ・ルーデンドルフ少将が任命された。難攻不落と言われたリエージュ要塞を攻略した功績により、皇帝ヴィルヘルム2世やモルトケにも高く評価されていたのである。

名コンビの誕生

ヒンデンブルグとルーデンドルフ
※タンネンベルクの戦いのヒンデンブルクとルーデンドルフ

2人が前線へ向かっている頃、補給線が延び切ったことで物資の欠乏に見舞われたロシア軍の進軍が徐々に鈍り始めていた。第8軍司令部では前司令官プリトビッツの参謀だったホフマン中佐がロシア軍の無線を傍受し続けていた。電信が通っていない地域へ進軍したロシア軍は部隊間の連絡を無線で行っていたのだが、それは暗号化されていなかったため、内容が筒抜けになっていたのだ。

またホフマンは、二つのロシア軍の司令官同士が不仲であるとの情報を掴んでおり、それが原因で両軍は連携が取れていないこと、それぞれが別の動きをしていることにも気付いていた。

8月23日、第8軍司令部に入ったヒンデンブルグとルーデンドルフは、ホフマンが傍受した無線情報により、ロシア第2軍が第1軍の作戦区域から大きく離れ、タンネンベルク(現・ポーランド)まで進出しようとしていることを察知する。ここに好機が訪れたのだ。

反撃へ

ヒンデンブルグとルーデンドルフ
※1914年8月27日から30日までの展開。赤がドイツ軍、青がロシア軍である。

この動きを確固撃破の好機と捉えた彼らは、ケーニヒスベルグの東方にいた第8軍を鉄道輸送により速やかに南下させ、ロシア第2軍にぶつけたのである。
8月27日、ドイツ軍が攻撃を開始すると、物資が欠乏していたロシア第2軍はこれを押し返すことが出来ず、包囲されて為す術もなく壊滅した。実はロシア軍の物資の欠乏には鉄道が関係している。当時、ロシアの鉄道と他のヨーロッパ各国では線路の基準が異なるために直接乗り入れることができなかったのだ。

そして、司令官のサムソノフは敗戦の屈辱に耐え切れずに森の中で拳銃自殺を遂げた。

ロシア第2軍との戦闘に勝利したドイツ軍は再び鉄道を使って北に戻り、今度はロシア第1軍と対峙することになる。しかし、第2軍が壊滅したと知る第1軍の戦意は低く、こちらも大損害を被ってロシア領内へと撤退したのだった。

時代を超えて雪辱を晴らす


※ヒンデンブルクが眠るタンネンベルク記念碑

二倍以上の敵を機動力のある自軍で撃破したタンネンベルクの戦いは、確固撃破の模範例として知られることとなった。

この戦いの後、英雄として讃えられたヒンデンブルグルーデンドルフのコンビは、その後も続く大戦でドイツを主導してゆくことになる。なおロシア第2軍が壊滅した場所はタンネンベルグからは離れていたが、15世紀にドイツ騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に破れた地の名を取り、この戦いはタンネンベルクの戦いと呼ばれるようになる。そこには、かつての雪辱を20世紀になって晴らしたという意味も込められているのだ。

一方のロシアは、ソビエト連邦となり第二次世界大戦の集結まで、この地を取り戻すことはなかった。

最後に

この戦いでは現代においても共通する重要なファクターが存在している。
「補給線」、「機動力」、「情報」の3点だ。

もし、ロシア側が事前に十分な補給が可能な状態を作り、鉄道の機動力を活かして、友軍との情報共有が出来ていれば結果はまったく別のものとなった。
その意味では、タンネンベルクの戦いは指揮官の教訓として今も生きている。

関連記事:第一次世界大戦
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