大正&昭和

バーナードリーチ ~日本人以上に民芸を愛した英国人 【東洋と西洋をつないだ陶芸家】

バーナード・リーチとは

バーナード・リーチとは

※バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach : 1887~1979)

バーナード・リーチ(Bernard Leach)とは、イギリス人の陶芸家・画家・デザイナーである。

彼は、日本において、現代では聞きなれている“民芸”の第一人者であり、理想主義・人道主義に重きを置いた表現活動を行った白樺派との交流や、日用品の中に美しさを見出す“用の美”を活用するための民芸運動と呼ばれた芸術ムーブメントにも深く関わっていた。

バーナード・リーチとは

思想家・柳壮悦

日本民藝館の設立にあたっては、中心人物であった思想家の柳宗悦(やなぎむねよし:1889~1961)に協力し、柳の他にも小説家の志賀直哉、画家の岸田劉生とも交流を深めていたと言われている。

今回は、イギリス人でありながら日本人以上に日本の民芸を愛した、バーナード・リーチについて解説する。

リーチが陶芸と出会うまで

1887年、リーチは香港にて、当時植民地の官僚であったイギリス人の父と、その妻である母の下へ生まれる(母は出産時に死亡)。

母を亡くしたリーチは、日本に住んでいた父方の祖父に引き取られるが、1897年にイギリスへ帰国。
1903年からは美術家を目指してロンドンの美術学校に入学した。

しかし、翌年に父が死去。
生活のために銀行員として働きながら、美術学校へ通う日々の中、日本からの留学生・高村光太郎と出会う。

バーナード・リーチとは

『智恵子抄』、『道程』などで有名な高村光太郎

このことがきっかけで、リーチは1909年、22歳の時に再び日本へ戻ると、東京・上野で暮らし始めた。

白樺派の青年たちと親睦を深めていったリーチは、ある時、上野の展覧会にて、楽焼の絵付けを体験することになる。(絵付けとは、専用の塗料を使って、皿に模様を描いたり色を塗ったりする作業のこと)

リーチはこの時の体験から、芸術的価値のある陶芸品よりも、日々の生活の中に多く用いる日用品としての陶芸の美しさに魅了されるようになっていった。

1912年からは六代目 尾形乾山に陶芸を学び、ついには、リーチ自身が七代目 尾形乾山を名乗ることを許されたのである。

外国人であるリーチが、日本の伝統的な名前を襲名するということは、センセーショナルな出来事であったと言えるだろう。

陶芸への想い

リーチの作る陶芸品は、西洋陶器と東洋陶磁の技術を融合させた、彼独特の味わいがあるとされている。

バーナード・リーチとは

リーチの作った陶芸品 wiki(c)バーナード・リーチ

東京都目黒区にある日本民藝館には、リーチの作った作品が120点展示されている。サイト上でも9つほど作品がupされている。

日本民藝館公式サイト

この日本民藝館は、展示場やミュージアムショップからなる本館と、旧・柳壮悦邸である西館とで構成されており、定期的に企画展が開催されている。

日本での活動の後、原点回帰のためにイギリスへ帰国したリーチだったが、イギリスでの活躍は目覚ましく、彼の創作活動は「To Leach or not Leach(リーチか、否か)」とまで言われ、イギリスの陶芸への意識を大きく変えたと言われている。

イギリスの陶芸家たちの中には、西洋よりも文化の発展が劣っているとされている東洋の陶芸から影響を受けたリーチに対し、嫌悪感を持つ者も少なくなかったと言う。

しかしリーチは批判に負けず、常に陶芸品の社会での役割や、陶芸家としての自分の在り方を考え、発信し続けていた。

東洋と西洋の架け橋となる”と大きな理想を抱き続けていたリーチは、思い悩むことも多く、たびたび信仰の力を借りてスランプを脱していたのだと言う。

リーチが最終的に信仰したのは、19世紀半ばにイランで創始されたバハイ教で、信仰によって自らの創作のアイディアを誕生させることもあったと言う。

リーチ・ポタリー

イギリス・イングランド南西端に位置するコーンウォール州。

そこには、リーチが創設した製陶所“リーチ・ポタリー”がある。

リーチ・ポタリーの一箇所 Interior of the Leach Pottery wiki(c)Jordanhill School D&T Dept

1920年、共に民芸運動に参加し、そのムーブメントに大きく貢献していた陶芸家の濱田庄司と一緒に創設した製陶所である。

リーチと共に渡英した濱田庄司

現在も製陶所として運営されており、リーチと濱田が共に作り上げた窯が当時のまま残っていたり、生前のリーチの作品が展示されたりしている。

また、博物館やギャラリーとしても使用されていて、博物館内では、リーチの作業場がそのまま残っていて、見学することも可能である。

2008年からは新しい製陶所が増設され、リーチの跡を継ぐ陶芸家たちの作品を購入することができる。

晩年のバーナードリーチ

この記事では、東洋と西洋をつないだ陶芸家、バーナード・リーチについて調べてみた。

晩年、リーチの功績はイギリスで認められ、1963年に大英国勲章を受章、1974年には国際交流基金賞を受賞している。

さらに1977年にはアルバート美術館が、リーチ作品の大規模回顧展を開催した。

リーチは85歳になるまで創作を辞めず、その後視力を失ってもなお、陶芸に関する著述を続けていたという。

ロンドンにあるヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)wiki(c)Diliff 

彼の主な著書には、『焼き物の本』(柳宗悦・編著)、『バーナード・リーチ日本絵日記』、『陶工の本』などがある。

また、母国イギリスでは『Unkown Craftsman(知られざる職人)』という著書を執筆している。

精力的に活動を続けたあと、リーチは1979年にセント・アイビスで息を引き取った。92歳であった。

 

アオノハナ

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