朝日杯フューチュリティステークス(2歳オープン 牡・牝 国際・指定 馬齢 1600m芝・右)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で毎年12月上旬に施行する重賞競走(GⅠ)である。フューチュリティ(Futurity)は「未来」「将来」を意味する英語である。
長い間「暮れの2歳チャンピオン決定戦」と位置づけられ、その年の最優秀2歳牡馬はこのレースの優勝馬が選ばれていた。
朝日杯フューチュリティステークスについて創設からの歴史をひもといてみる。
なお2001年(平成13年)から競走馬の年齢表記が数え年から満年齢に変更された。この記事ではレース名以外は現在の表記で記す。
競馬のイメージアップのために創設
朝日杯フューチュリティステークスの前身の「朝日盃3歳ステークス」は1949年(昭和24年)、中山馬主協会の三代目・中村勝五郎が、知り合いの朝日新聞編集局長に企業名を冠した冠競走への社賞の提供を持ちかけて創設された。
日本競馬で初の企業名を冠したレースである。
始めは中村勝五郎は東京優駿(日本ダービー)への提供を持ちかけたが、太平洋戦争後の一時期中央競馬を管理していた農林省競馬部の許可が得られず、2歳馬の高額賞金レースとして誕生、中山競馬場で施行された。
中山競馬場は、1906年(明治39年)に設立された松戸競馬倶楽部が建設した松戸競馬場を前身とする。
1928年(昭和3年)に二代目・中村勝五郎の尽力により現在地に建設された。太平洋戦争中に陸軍に接収され、戦後は進駐軍の農場として接収。1947年(昭和22年)に戻されて再開した。
昭和20年代~30年代は地方競馬を中心に八百長事件が多かった。中央競馬でも八百長を疑った観客による騒乱が多発した。
1949年(昭和24年)、中山競馬場でミナトクヰン(牝2)のスタートを巡り「八百長」と糾弾する観客が暴徒化し、競馬場事務所前に押し寄せた。二代目・中村勝五郎が暴徒を説得し一触即発の騒ぎを収めた「ミナトクヰン事件」が起きた。
「朝日盃3歳ステークス」は競馬のイメージアップと、新聞社の冠名による社会的信用の向上を目指して誕生した。
中山競馬場の芝1100mで施行された第1回朝日盃三歳ステークスの優勝馬は、アヅマホマレ(牡2)である。
翌年の第10回皐月賞に出走、4着に終わった。
朝日盃3歳ステークスから朝日杯フューチュリティステークスへの歴史
朝日盃3歳ステークスは、関東地区の2歳チャンピオン決定戦と位置づけられた。
1959年(昭和34年)(第11回)施行距離を芝1200mに変更、1962年(昭和37年)(第14回)に芝1600mに変更され、以後この距離で施行されている。
1970年(昭和45年)(第22回)レース名を「朝日杯3歳ステークス」に変更。
1971年(昭和46年)(第23回)混合競走に指定され外国産馬が、1995年(平成7年)(第47回)には特別指定交流競走に指定され、地方競馬所属馬がそれぞれ出走可能になった。
1984年(昭和59年)(第36回)グレード制施行によりGIに格付けされた。
1991年(平成3年)(第43回)関西地区の2歳チャンピオン決定戦だった「阪神3歳ステークス」が牝馬限定戦に変更、朝日杯3歳ステークスは牡馬と騸馬(去勢した牡馬)が出走可能になったが、2004年(平成16年)(第56回)から競走条件を牡馬と牝馬に変更され、騸馬は出走できなくなった。
2001年(平成13年)(第53回)馬齢表記を国際基準へ変更したのに伴い、レース名称が「朝日杯フューチュリティステークス」に変更された。
2010年(平成22年)(第62回)国際競走に指定されて外国調教馬が出走可能になり、格付表記をGI(国際格付)に変更された。
中山競馬場から阪神競馬場へ移設
朝日杯フューチュリティステークスは、かつては牡馬クラシック(皐月賞・日本ダービー・菊花賞)への登龍門として数多くのクラシック優勝馬を輩出した。
しかし近年は馬の適性距離が重視されるようになり、中山競馬場の1600mでは短かかったり枠順によって有利不利が生じたりすることが嫌われて、翌週に阪神競馬場の芝2000mで行われる「ラジオNIKKEI杯2歳ステークス」に有力馬が集まることが多くなった。
2014年(平成26年)(第66回)レースの舞台が阪神競馬場(芝1600m)に移設された。
代わりに阪神競馬場のラジオNIKKEI杯2歳ステークスを移設して「ホープフルステークス」と改称しGIIに昇格させた(2017年(平成29年)GIに昇格)。
「朝日杯」は中山競馬場ゆかりのレースであり、移設を惜しむ人は多い。
《夢のスーパー・カー マルゼンスキー》
1976年(昭和51年)第28回の優勝馬は、中野渡清一騎手の感想「外車の乗り心地」から「スーパーカー」と呼ばれたマルゼンスキー(牡2)である。
マルゼンスキーは、前脚が外向しているため力一杯走らせると故障してしまう恐れがあった。そのため完全に仕上がらない状態で出走させざるを得なかったが、出るレース全てで圧勝してしまった。
馬主の橋本善吉がアメリカのキーンランド・セールで購入した繁殖牝馬シルは、イギリス三冠馬のニジンスキーの仔を受胎していて、日本でマルゼンスキーを産んだ。このような仔馬を「持ち込み馬」といい、当時は内国産馬保護のため有馬記念を除く八大競走に出走できなかった。
デビュー4戦目で出走した朝日杯3歳ステークスは、当時の日本レコードを大幅に更新して圧勝した。
誰もがマルゼンスキーの日本ダービーを夢見たが「賞金はいらない、28頭立ての大外枠でもいい、他の馬の邪魔はしないから一緒に走らせてほしい」との中野渡騎手の懇願もむなしく、出走は叶わなかった。
8戦8勝し有馬記念を目指して調教中に故障を発生、そのまま引退してしまった。もしも何の制約もなければ、彼が日本競馬における最強馬だったかもしれない。
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