インドとバングラデシュの両国間に広がる世界最大のマングローブ林。
この辺りはスンダルバン(インド・ヒンディー語)またはシュンドルボン(バングラデシュ・ベンガル語)と呼ばれ、絶滅危惧種に指定されているベンガルトラの棲息地となっています。
近年トラと人間の衝突によって死傷者が後を絶たず、主にバングラデシュ側スンダルバンを対象とした当局統計では、2000年以降にトラ46頭と、人間およそ300名が命を落としたとされています。
危険かつ違法と知っていながら、生活のためにマングローブ林へ入る男性が多く、遺された妻子たちが生活に困窮してしまうケースは少なくありません。
今回は、タイガー・ウィドゥ(トラ未亡人)と呼ばれた女性たちが、なぜマングローブ林の再生活動に参加するようになったのか、その事情や理由を紹介したいと思います。
世界最大のマングローブ林に棲むベンガルトラ

画像 : ベンガルトラ Charles James Sharp CC BY-SA 4.0
まずはスンダルバン/シュンドルボンの自然環境と、ベンガルトラについて把握しておきましょう。
陸地と水域を合わせた総面積は、およそ1万平方km(約100万ha)にも及び、インド側とバングラデシュ側それぞれがユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録されています。
面積の割合は約40%がインド、残り約60%がバングラデシュに属し、両国それぞれ国立公園にも指定されています。
この一帯はガンジス川・ブラフマプトラ川・メグナ川が流れ込むことでデルタ湿地帯が形成され、大小の河川や干潟、入江が複雑に絡み合って豊かな生態系を生み出しました。
世界最大のマングローブ林には、インド側とバングラデシュ側を合わせて200頭前後のベンガルトラが棲息しているとされ、環境に適応して泳ぎや狩りを得意としています。
ベンガルトラは巨大な体格を持つことで知られており、成獣になるとオスで全長約3m、メスでも約2.5mまで成長するそうです。
そんなベンガルトラは、近年バングラデシュ側を中心にマングローブ林の開発が進んだことなどから棲息数が激減。絶滅危惧種となってしまいました。
棲み処を追われたベンガルトラは、人間の生活圏近くまで行動範囲を拡大。
人間との衝突によって人間を襲う「人食いトラ」事件も頻発しています。
危険で違法とわかっていても……

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一方で人間も、生活のために、やむなく危険なマングローブ林へ入っていくケースが後を絶ちません。
特に2020年から流行した新型コロナウィルスのパンデミックにより、都市部や国外の出稼ぎ先で仕事を失った労働者たちが故郷へ帰って来てからは、トラ被害が増加しました。
故郷では生計を立てられる仕事が多くありません。だからこそ出稼ぎに行っていたのに、労働者たちが一斉に戻って来たら、需給バランスが破綻してしまいます。
そこで彼らは生きていくため、家族を食べさせるため、危険を承知でマングローブ林へ入っていったのです。
彼らの目的は、豊かなマングローブ林に集まる魚やカニなどです。しかしそれらを狙っているのはトラも同じ。
かくして2020年には、24名という近年最多の犠牲者を出してしまいました。
ある夫婦の例では「働かなければ、どうやって息子を学校に通わせるのか。どうやって借金を返すのか」と妻の制止を振り切った夫がマングローブ林へ入りました。
そして3回は無事に戻り、4回目でトラの餌食になったと言います。
しかしマングローブ林でトラに食い殺されても、政府からの補償が行われることはほとんどありません。
マングローブ林の多くは国立公園や保護区に指定され、立ち入りや採取が厳しく制限されているため、被害者が不法侵入者や密漁者と見なされ、補償の対象から外されてしまうケースが少なくないからです。
夫を食い殺した女?遺された妻子の受難

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トラに夫を食い殺されてしまった女性は、英語でタイガー・ウィドゥ(トラ未亡人)と呼ばれるほか、ベンガル語ではスワミ・ケジョスと呼ばれます。
これは「夫を食い殺した女」という意味です。
実際に夫を食い殺したのはトラなのに、妻が食い殺したことにされてはたまりません。
現地では「トラに襲われたのは神を怒らせた罰であり、遺された妻は不吉な存在である」という迷信が根強く残っており、故郷を追われるケースもあると言います。
故郷に残れたとしても、彼女たちの多くは十分な教育を受けておらず、手に職を持っていないケースも少なくありません。
だから仕事を見つけるのが難しく、日雇いの肉体労働や都市部の女中勤務など、限られた職業で糊口をしのぎます。
特に小さな子供を抱えているケースは深刻で、追い詰められた女性の中には、やむにやまれず売春宿の戸を叩く例もありました。
まだ若く独身であれば、再婚の可能性もなくはないでしょう。
しかし、中高年でまだ小さな子供を抱えているようなケースだと、途方に暮れるよりありません。
マングローブ林を再生し、トラと人間の棲み分けを

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そんな中、国内外のNGOや自然保護団体が、インド側のジャールバリ島でマングローブ林の再生事業を開始しました。
彼らはタイガー・ウィドゥをはじめ地元女性たちを雇用し、マングローブの採種・育苗・植林を手伝ってもらう対価として賃金を支払っています。
女性たちに支払われる日当は300ルピー(約515円)。現地の金銭感覚では、子供たちを食べさせていける金額です。
彼女たちが、夫を殺したトラの棲息環境を保全する活動に参加する理由は、もちろん生活のためが第一でしょう。
しかしそれだけではありません。
開発によって損なわれたマングローブ林を再生することで、より大きな恩恵が得られるからでもあるのです。
マングローブ林が再生すればサイクロンや高潮の被害を緩和し、魚やカニなどの水産資源を維持できるようになります。
魚やカニが潤沢に獲れれば、人間は危険なマングローブ林に入る必要はなくなり、トラもまた人間の生活圏まで出ていく必要もなくなるでしょう。
要するに「トラと人間の棲み分け」が可能となるのです。
男性も女性も安全かつ安定的に生計を立てることが出来れば、子供たちを食べさせるだけではなく、十分な教育を提供できます。そうすれば未来に希望を持つこともできるでしょう。
今回はトラによって夫を奪われた女性たちが、自分の人生を狂わせた出来事を根本的に解決するため、行動を起こしたエピソードを紹介しました。
このエピソードは、人間と野生動物の関係を見直すきっかけとなるのではないでしょうか。
※参考:
Bangladesh tries fences to tackle growing human-tiger conflict in Sundarbans
UNESCO World Heritage Centre — The Sundarbans
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
























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