毛沢東のイメージ
筆者の毛沢東のイメージはあまり良いものではない。
共産主義国の暴君といったところであろうか。しかし中国人にとっては英雄であり、中国統一を果たし中華人民共和国を作り上げた国の父である。
彼の横暴な支配についての表と裏やなにが起きたかなどは、国民は全てではないが知識は持っている。もちろん不満も抱いている部分もあるが決して口にはしない。
彼の著書は毎年ベストセラーであり、学校では彼の思想について学ぶのである。
今回は毛沢東がどんな人物だったかについて3回にわけて解説していく。
どんな人物なのか?
毛は1893年12月26日に清の湖南省で生まれた。5人兄弟の三男として生まれるが、長男と次男は早くに亡くなったため事実上の長男として育つ。
その才覚で地主まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学に励んだ。
1911年に辛亥革命が勃発すると、新中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営業左隊に入隊するが、半年後に清が圧制に失敗し事実上崩壊したことにより、学校へ戻った。
そこで日本の明治維新に興味を持ちいくつかの学校を点々とする中、アダムスミスやモンテスキューなど社会科学系の書物に触れた。
師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は1918年4月、学友とともに新民学会を設立して政治活動に加わるようになった。
教師時代
1981年に師範学校を卒業すると中華民国北京政府の首都である北京に上京。
北京大学に勤める傍ら、雑誌「新青年」の熱心な寄稿者となり、共産主義に傾倒していった。
1919年に帰郷し、中学校で歴史の教師となり「湘江評論」を創刊するが、4号で省政府から発禁処分をうける。
1920年には学友の楊開慧(ようかいけい)と結婚し3人の子をもうける。
中国共産党への参加
1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会に出席する。
1923年には第3回党大会で役員の一人に選ばれ、重要な役割を果たすようになる。
1926年に労働者と農民の代表大会に出席し、湖南省における農民運動の報告書を制作。その時の「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という言葉は、彼の革命理論構築の初期段階と考えられる。
1927年に党大会で党中央委員会候補委員に選出された。毛は「武力で政権を打ち立てる」という方針を掲げ、国民党との武装闘争が党の方針となった。
その後、湖南省で武装蜂起するも失敗し、配下の農民兵とともに井崗山に立て籠ることとなった。
そしてその場所を革命根拠地として、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地改革」を実施していった。そして江西省に端金を首都とする中央革命根拠地である「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。
しかし、この中国共産党の本拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされることとなる。
実権を失った毛沢東
国民党による包囲に対して毛はゲリラ作戦を敢行した。
しかしうまくいかずソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、毛は一時的に指導権を失う。第6回党大会でも目立った立場を得る事はなかった。
その後も劣勢を強いられた共産党は江西ソビエトを放棄して敗走する。だがそれと同時期に毛を批判したソ連留学組の党主導部は軍事指導の失敗を指摘され失脚。
新たに周恩来を最高軍事指導者とし、毛沢東は中央政治局常務委員に選出された。
しかし毛沢東は周恩来から実権を奪うことになる。8月19日、中央書記処の決定により軍事上の最高指導者となった。
共産党主席となる
1936年秋には陜西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を支持し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年の12月12日に西安で起きた蒋介石監禁事件(西安事件)後に宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。
翌年、毛沢東は改めて中国共産党中央革命軍事委員会の主席に就任した。
そののち日中戦争が勃発。国民党と共にアメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助と共に日本と対峙する。
ただし対日本軍の主戦力は国民党で、共産党は八路軍が日本軍へのゲリラ戦後を行うに止まり、日本軍と国民党軍の交戦を傍観、戦力を温存して共産党支配地域の拡大に傾注していった。
そして党の実権を掌握していった毛沢東は1942年からの整風運動により党内の反勢力を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導的理念として加えられ、6月19日ついに毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任するのである。
では、毛沢東とはどのような人柄だったのだろうか?彼のカリスマ性の秘密とは?
次の記事で取り上げたい。
毛沢東とはどんな人物だったのか?② 「生涯歯を磨かなかった、性格はサイコパス」
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