負担が増し続けるアメリカ
緊迫する中東(イスラエル)情勢を受けて、イスラエルとパレスチナが対立する起源を歴史的に考察する企画です。
アメリカはイスラエル沖に原子力空母「ジェラルド・フォード」を派遣。2隻目として「アイゼンハワー」も送られるかもしれないという報道もあります。
またイスラエルには、軍事装備品の供与をすでに開始している模様です。
イスラエルの状況が悪化すれば、ウクライナにも対応しているアメリカの負担は計り知れません。
その隙を狙って、中国が台湾を…。
あまり考えたくないですが、世界が混沌に向かっていることは間違いないようです。
前回の記事内容を簡単にまとめます。
アラビア半島を統一したムハンマドですが、彼の死後、イスラーム教団は大きな危機に直面しました。
ムハンマドのカリスマ的な指導力に依存していた教団は、ムハンマドの死によって組織の方向性が不明瞭となり、後継者をめぐって対立が生じたためです。
初代カリフ(後継者)のアブー・バクルはこの危機を乗り越え、アラビア半島の再統一に成功します。
しかし2代目カリフであるウマールの時代になると、軍隊の処遇が課題となって結局は戦争を繰り返したため、イスラーム帝国は“無理な拡大”を続けたのです。
今回の記事では、「急速な成長を続けるイスラーム帝国が直面した課題」について解説したいと思います。
膨張を続ける正統カリフ時代
ムハンマドの死後、アラビア半島の各地で部族反乱が発生し、一時は教団存続の危機に直面します。
こうした状況下で、アブー・バクルが1代目のカリフに就きます。ムハンマドの友人だった彼は、なんとアラビア半島の再統一を成し遂げたのです。
しかし再統一が完了したあと、2代目カリフであるウマールの時代に新たな課題が浮上します。
その課題とは、アラビア半島の統一を果たした後、どのように「大軍を維持し、管理するのか」です。
ウマールは対策として、対外膨張戦争を開始することを決めました。
この領土拡大を目指す戦争は、軍隊の維持と国内問題に対処するために実行されたのです。
“進撃の”ウマイヤ朝
4代に渡って正統カリフ時代が続いたあと、ウマイヤ家がカリフの地位を継承し、ウマイヤ朝を成立させました。
ウマイヤ朝の時代は、イスラームの勢力が急速に拡大した時期になります。
かつて強大な帝国として君臨したビザンツ帝国とサーサーン朝から、ウマイヤ朝は領土(シリアなど)を奪うことに成功したのです。
この成功に満足することなく、ウマイヤ朝はさらに西方へと進出を続けます。
イベリア半島をほぼ完全に制圧したあと、ウマイヤ朝の軍隊はさらにフランス方面へと進軍。フランク帝国とのあいだで大規模な戦争が起こりました。
732年の「トゥール=ポワティエ間の戦い」です。
この戦いでウマイヤ朝は敗れてしまい、ヨーロッパへの進軍には失敗します。
しかし、ヨーロッパ以外の地域においてウマイヤ朝は拡大を続け、イスラーム教と文化が新たな地域に広がる土壌ができあがっていったのです。
ウマイヤ朝が直面した課題
イスラーム帝国(ウマイヤ朝)の急速な拡大は、新たに税制の問題を引き起こしました。
初期のイスラーム帝国は「ムハンマドの死」という大きな危機を乗り越えるため、対外膨張戦争を続けることで克服しようとしてきました。
初期の段階ではイスラームに改宗する者が少なかったため、税制の管理は簡単でした。しかし帝国がさらに広がるにつれて、征服地の住民がイスラームへの改宗を選ぶようになります。
改宗者は「ジズヤ(税金)」の支払いから免除されたため、結果として帝国の税収が減少する状況が生まれました。
また新たなムスリムの増加に伴い、税制の適用や平等性に関する問題が生じてしまい、税の管理が徐々に複雑化していったのです。
税収の減少と複雑化に対処するため、ウマイヤ朝は改宗したムスリムからも、一定の税を徴収する方針を打ち出します。
しかし「イスラームの原則や教義に反する」との批判が高まり、結果としてウマイヤ朝の弱体化に繋がっていきました。
ウマイヤ朝が衰退した大きな原因は大きく2つあります。
「領土の急激な拡大」と「(領土拡大に伴う)税制問題」です。
初期のシンプルだった税制が帝国の拡大とともに適応できず、税収の減少や不公平感が生まれました。そのため統治の質が低下し、国内での矛盾や不満が高まったのです。
このような状況に陥ったため、ウマイヤ朝は滅亡を迎えることになります。
シーア派の誕生とアッバース朝
ウマイヤ朝の税制改革に反発する形で、複数の派閥が存在するようになります。
そのなかで、多くの支持を集めたのが「シーア派」です。
現在でもシーア派を信仰する国として、イランやイラク、バーレーンなどがあげられます。
シーア派はウマイヤ朝の正統性に異議を唱える勢力として登場し、この勢力の中心にアッバース家がいました。
彼らは革命を起こして、ウマイヤ朝の打倒に成功。
「アッバース朝」を成立させたのです。
アッバース朝は、税制において大きな改革を行いました。
異教徒に対してのみジズヤ税を課すという方針を取り入れ、一方で「ハラージュ」と呼ばれる土地税は一律全員に課税しました。
この改革によって「信者(ムスリム)は皆平等」というイスラームの原則を守りながらも、税収の確保を実現することができたのです。
税制の危機を乗り越えたアッバース朝ですが、その拡大は次第に限界に達します。
ウマイヤ朝からアッバース朝に王朝が交替した後、750年に起きた「タラス河畔の戦い」で唐王朝に大勝しますが、そのあと帝国の拡大は急停止します。
こうして、長く統一されていたイスラーム帝国が分裂を始めたのです。
参考文献:神野正史(2020)『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』祥伝社
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