1999年春、カンボジアに駐在する日本人記者が現地スタッフに世界地図を見せ、カンボジアの位置を尋ねます。ところがスタッフの誰もが、カンボジアの正確な位置を答えることができませんでした。
外国メディアで働くカンボジア人でさえ、基本的な地理的知識を持っていない事実は、ポル・ポト政権下で実行された「知識人抹殺政策」が今も影を残している証拠です。
今回の記事では、カンボジアを地獄絵図にしたポル・ポトについて見ていきたいと思います。
ベトナムの侵攻によって発覚した大量虐殺
カンボジアの歴史と言えば、世界遺産のアンコール・ワットのような平和なイメージがある一方で、内戦など血なまぐさい出来事もあったという二面性があります。
1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに侵攻した際、わずか2週間でポル・ポト政権は崩壊しました。
ベトナム軍がカンボジアで目にした光景はまさに「地獄」でした。あらゆる場所に死体が埋められ、国民は呆然と佇み、至るところで腐臭が漂う光景が広がっていたからです。1975年のプノンペン陥落からポル・ポトの支配下だった3年間、多くのカンボジア国民が虐殺された事実がのちに明らかになります。
その数は100万人から300万人…。当時のカンボジアの人口が600万人であったことを考えると、最低でも6人に1人、場合によっては半数近くの人々が犠牲になったことになります。あまりの死者の多さに正確な数字は把握できないそうです。
まず最初に、ポル・ポトが勢力を拡大していく過程を見ていきましょう。
シアヌーク国王の綱渡り外交
ベトナムはインドシナ半島における大国で、隣国カンボジアに対して強い影響力を持っていました。
ベトナム戦争時、カンボジアのシアヌーク国王は「親米反共」を公言しつつ、実際には北ベトナム寄りの態度を取っていました。ベトナムへの軍事物資がカンボジア領内を通過することを黙認するなど、大国ベトナムとの関係維持を優先したからです。
この「綱渡り」的なシアヌークの方針が、のちにクーデターを招く遠因となります。
アメリカはベトナム戦争に集中するために、シアヌークが取るベトナム寄りの政策に不満を感じていました。
1970年、アメリカはシアヌークがソ連を訪問しているときを狙って、ライバルだったロン・ノル将軍によるクーデターを黙認・支援したのです。
ロン・ノルは親米路線を取り、カンボジア国内に潜伏しているベトナム軍やベトコンへの攻撃を開始します。
一方のシアヌークは、中国の全面支援を得て亡命政権を樹立し、かつて弾圧していたカンボジア共産党と手を結んでロン・ノルに対抗しました。
カンボジア共産党にはポル・ポトがいました。
こうしてカンボジアの内戦が始まり、国は分断されることになったのです。
アメリカの誤算が内戦をエスカレート
シアヌークを支持する農民たちのゲリラ活動は勢力を拡大していきます。その中心となったのはポル・ポト率いるカンボジア共産党と、北ベトナムの支援を受けた部隊でした。
一方のアメリカはベトナムからの撤退に向け、カンボジア国内の北ベトナム軍の拠点を制圧するべく爆撃を繰り返します。しかし、むしろカンボジア農民の反発を招き、更なる共産ゲリラの台頭を招く結果となりました。
アメリカがカンボジアの共産化を育成したことになり、まさにカンボジアはベトナム戦争の影響をもろに受けたのです。
内戦は泥沼化し、50万人もの死者と100万人を超える難民が発生。アメリカのベトナム撤退を受けて、より有利となった北ベトナムがカンボジアの共産ゲリラを支援することで、戦局はより混迷を極めます。
プノンペン陥落後の市民への残虐行為
1975年4月、ポル・ポト率いるカンボジア共産党が首都プノンペンを制圧。ロン・ノル政権を崩壊させました。
ロン・ノル側の政府高官や軍人は即座に処刑され、翌日からは市民の強制退去が始まります。
病人であろうと子供であろうと、例外なく200万もの市民が着の身着のままで市外への退去を強要され、拒否する者はその場で殺害されました。ポル・ポトにとって都市住民は気に入らない存在であり、無理やり農村へ送り込むことで、新たな労働力を獲得しようとする目的もありました。
ポル・ポトは、国民を農村部の「旧住民」と都市部の「新住民」に分類。「新住民」の権利を全て剥奪し、大量虐殺がカンボジア国内で始まりました。
反ロン・ノルのシンボルであり、ポル・ポトを支援したシアヌークはもう用済みです。カンボジアに帰国すると、シアヌークは王宮に幽閉されます。
そしてポル・ポトによる悪夢の3年間が始まるのです。
参考文献:池上彰(2007)『そうだったのか! 現代史』集英社
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