犯罪人類学において生み出された「ロンブローゾ学説」では、犯罪者となる者は生来的な特徴を持っているという。
ロンブローゾ学説とは、イタリアの精神科医チェーザレ・ロンブローゾが提唱した学説で、「凶悪な犯罪者は、生来的に共通する身体的特徴や精神的特徴を持つ」というものだ。
ロンブローゾの理論によれば「凶悪な犯罪者は、左右不均等で小さい頭蓋骨、曲がった鼻、長い下あごなど、一般的に美しいとは言えない身体的特徴を持ち、さらに貧しい環境で育った傾向がある」という。
しかし、1972年にアルゼンチンで捕まったカルロス・ロブレド・プッチは、ロンブローゾが提唱したどの特徴にも当てはまらなかった。
彼は平凡な中流家庭で愛されて育った上に、誰もが美しいと認めるほどの美少年だったのだ。
彼はロンブローゾ学説をものの見事に引っくり返し、11人の被害者を欲望のままに殺害し、他にも殺人未遂、強盗、誘拐など多くの罪を重ねて終身刑を言い渡された。
今回はアルゼンチンの連続殺人犯、世間から「黒い天使」と呼ばれたカルロス・ロブレド・プッチについて触れていきたい。
黒い天使・カルリートスの生い立ち
カルロス・ロブレド・プッチ、通称カルリートスは、1952年1月19日にアルゼンチンの美しき首都ブエノスアイレスで生まれた。
父はゼネラル・モーターズカンパニーの技術者で、母はドイツ系移民の主婦だったが、父方の親族には軍事指導者マルティン・ミゲル・デ・グエメスやサルタ州知事を2度勤めた軍人ディオニシオ・プッチ・ベラルデがおり、カルリートスはアルゼンチンの英雄の家系の子孫でもあった。
カルリートスが4歳の時、一家はブエノスアイレスのオリボスのアパートに引っ越す。幼い頃のカルリートスは、彼を心から愛した母親に似た内気で物静かな性格で、ピアノやドイツ語を学び、サッカーを愛するごく平凡な子どもだった。
カルリートスの問題行動が現れ始めたのは、学生になってからだ。カルリートスは学校でいじめられ、家では父親との折り合いが悪くなった。
その影響からかクラスメイトの物を盗むことが度々あり、ついには学校の秘書室から金を盗んで捕まり、15歳の時に学校から退学処分とされる。
16歳の時、カルリートスはオートバイを強盗して逮捕された。そして逮捕時にこれまで14件以上の窃盗を犯したことを自供する。
その後に送られた矯正施設で20日間を過ごして出所したが、それから約1年後にカルリートスは悪友と出会ってしまう。
その悪友こそが、後にカルリートスの殺人や強盗の共犯者となるホルヘ・アントニオ・イバニェスだった。
1年足らずで11人を殺害
カルリートスとイバニェスが手を組んで、殺人という大罪を初めて犯したのは1971年5月3日のことだ。
ブエノスアイレス北部の町、ビセンテ・ロペスにある自動車修理工場に忍び込み、カルリートスは店主を射殺した。店主の妻にも重傷を負わせて性的暴行を加え、現金を盗んで逃走する際には、被害者夫妻の子どもが眠るゆりかごにも発砲したが弾は当たらず、妻と子どもの命だけは助かった。
5月14日にはオリボスのナイトクラブで強盗殺人、5月24日にはビセンテ・ロペスのスーパーマーケットでも強盗殺人を犯した。
同年6月13日、カルリートスとイバニェスはハイウェイで16歳の少女を誘拐した。路上で売春のために客を取っていた少女は銃を突きつけられて、車に押し込まれ連れ去られた後、性的暴行を加えられて殺害された。
さらに11日後の6月24日、前回の被害者の少女を捕らえた場所で、恋人の家から出てきた22歳の女性を誘拐し、同様の手口で殺害する。
しかし同年8月5日、イバニェスはカルリートスの運転中に起きた交通事故で死亡してしまったのである。この事故はカルリートスがイバニェス殺害のアリバイとして演出した事故だとも言われた。
共犯者を失ったカルリートスが、新たに選んだのがエクトル・ソモサだった。
イバニェスの事故死から約3ヶ月後の11月15日、2人はブエノスアイレス北部のスーパーマーケットに忍び込み、遭遇した監視員を何度も撃ち射殺する。
スーパーマーケットで盗みを働くことができなかった彼らは、2日後の11月17日に自動車代理店に忍び込んで現金を盗み出し、逃げる際に眠っていた監視員を射殺した。
11月25日にも他の自動車代理店で現金を盗み、監視員を殺害している。
最後の殺人
年が明けて1972年2月3日、ブエノスアイレスのティグレという町で、カルリートスは最後の殺人を犯す。
いつものようにソモサと共に金物店に忍び込んだカルリートスは監視員を射殺し、ソモサは現金を盗むために金庫を開けようとした。
しかしその金庫がなかなか開かず、焦ったソモサはカルリートスに掴みかかる。そしてカルリートスはパニックになった友人を、ためらいもなく撃ち殺したのだ。
その後、カルリートスは息絶えたソモサの顔をトーチで焼き、ソモサの身元をわからなくしてから逃亡した。
しかし、現場に残されたソモサのズボンのポケットにカルリートスの身分証が入っていたため、翌日の2月4日、ついにカルリートスは逮捕される。
逮捕時のカルリートスは、まだ20歳になったばかりであった。
裁判
カルリートスの裁判は、逮捕から8年以上もたった1980年8月4日から始まった。
罪状は少なくとも11件の殺人罪、1件の殺人未遂、17件の強盗、1件の性的暴行と1件の性的暴行への関与、1件の性的虐待、2件の誘拐、2件の窃盗だった。
裁判にてカルリートスは、最初の共犯者だったイバニェスに対して「多くの罪については彼に責任があった」と証言し、裁判の過程を茶番と吐き捨てるなど反抗的な態度を取った。
カルリートスと面会した法医学精神科医は、カルリートスが「サイコパス」であると断定し、92人の証人がカルリートスの犯行を告発した。
カルリートスは後に、この法医学精神科医を「自分を利用して名声を挙げた」として非難している。
1980年11月27日、カルリートスは終身刑を言い渡される。アルゼンチンには死刑制度がなく、法律の下で考えられる最高刑であった。
判決を受けてカルリートスは、「私は事前に裁かれ、判決を受けていた」「拷問を受け自白を強要された」などと主張し、窃盗については認めたが殺人への関与は否定した。
最初に被害に遭った自動車修理工場の店主の妻は、裁判には健康上の理由で出廷も証言もしなかったが、夫を射殺した男は髪が長かったと発言している。犯行時、カルリートスの髪は短い巻き毛で、イバニェスの髪は長かったという。
今も獄中で過ごし続ける「黒い天使」
逮捕後のカルリートスは、父とは対立したが母には擁護され続け、両親は後に離婚した。
逮捕から間もなく一時的に刑務所から脱走もしたが、すぐに再逮捕された。
カルリートスが犯した犯罪は、2018年に『永遠に僕のもの』というタイトルで映画化されている。
アルゼンチンには死刑がないため、カルリートスは72歳になった今も服役中で、南米で最も長く服役している囚人となり、刑務所ではうつ病の治療を受けたり、薬殺による死刑を望んだりもしたが、安楽死が認められることはなかった。
仮釈放されることもなく50年以上もの時を刑務所で過ごすカルリートス。彼の逮捕時、世間は彼の罪深さよりも美しさに沸き立ったが、今ではその面影はあまりない。
様々な病を刑務所の中で患った彼は、すでに自分自身の寿命を見据えており、塀の外で自由に死ぬことを願っているという。
参考 :
ソリアーノ・オスバルド 『El caso Robledo Puch』
ロドルフォ パラシオス(著) 『The Black Angel: The Fierce Life of Carlos Robledo Puch』
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