標高4000~5000m級の高山が連なる北コーカサス地方、ロシア連邦南西部の国境に位置する北オセチア共和国には、ダルガフスという村がある。
この村の郊外には、かつて治る見込みのない疫病にかかった人々が、生きたまま入れられたと伝わる墓地がある。
「死者の街」といわれるこの墓地には、「入れば二度と生きては出られない」という伝説がまことしやかに伝えられており、地元の人間が近付くことは滅多にないという。
今回は悲しい歴史が伝わるネクロポリス、ダルガフスの死者の街について解説していこう。
北オセチア共和国・ダルガフスの地理
北オセチア共和国はロシア連邦の連邦構成主体の1つで、日本語での正式名称は「北オセチア・アラニヤ共和国」という。
首都はウラジカフカスという街で、国境を接するジョージアとはグルジア軍用道路という観光ルートで結ばれている。
ウラジカフカスは、帝国時代のロシアのコーカサス(カフカス)地方支配の中心都市として建設された都市であり、都市名に冠された「ウラジ」という語は、ウラジオストクの「ウラジ」と同じく「領有する」という意味の動詞から派生した語である。
日本人にはあまり馴染みのない国かもしれないが、大相撲元力士の露鵬・白露山兄弟や、若ノ鵬、阿覧は、北オセチア共和国出身の人物だ。
ダルガフスはウラジカフカスから、直線距離では約30km、車で行けば1時間から2時間ほどの場所、プリゴロドニ地区のギゼルドン渓谷沿いに位置している。
かつては辺境の村であったが、現在は北オセチア随一の観光名所となっており、ダルガフス目当てで北オセチアを訪れる人も珍しくない。
ダルガフスの「死者の街」はコーカサス山脈の麓、夏でも冷たい風が吹き抜ける丘の上にある墳墓群だ。
モルタルで塗り固められた石造りの家のような形をした墓の中には、今も人骨やミイラ化した遺体が、そのままの状態で安置されている。
死者の街の歴史
「死者の街」の歴史はまだ研究途上で、12世紀頃から始まったとも、起源は9世紀にまでさかのぼるとも言われている。約100基もの墳墓が並ぶ光景は圧巻だが、当初は死者を埋葬するために形成された、いわゆる「一般的な墓地」だったとされる。
特定の一か所に墓地が集中した理由については、一説では13世紀頃のモンゴル侵攻によって領地が狭められたため、居住地や農地の確保のために墓地を峡谷の斜面に集中させたと考えられる。
北オセチアでは17世紀から18世紀にかけて、異民族の流入と共に疫病が流行して多くの人々が亡くなった。
その疫病とはヨーロッパで猛威をふるったペストともコレラとも言われるが、どちらにせよ当時の医療ではまともな治療ができない病だった。
疫病によってオセチア周辺の人口は約20万人から2万人に満たないほどにまで激減したと言われる。ダルガフスにも例外なく疫病の魔の手は届き、多くの人間が死者の街に運び込まれた。
墓に入れられたのは、死んだ人間だけではなかった。
疫病により命を落とした人間はもちろん、疫病にかかってしまった生者までもが感染の広がりを防ぐために墳墓に入れられたのだ。
疫病患者は墓の中で物言わぬ遺体に囲まれて、親族が運ぶわずかな食料と水をすすりつつ、暗がりの中で苦しみながら寂しく死を待ったという。
ダルガフスに伝わる魔女伝説
死者の街は、「魔女の呪いによって生じた」という伝説もある。その伝説とはこのような話だ。
かつてダルガフス村に、1人の美女が忽然と現れた。村の男たちは見知らぬ美女に色めきだち、誰がその美女を妻とするかで争いを始めた。
村の女たちは男を惑わせる美女を魔女と決めつけ、村に争いをもたらした哀れな美女は、神への捧げものとして殺されてしまった。
謎の美女の死から間もなく、ダルガフス村を疫病が襲い始めた。
まるで彼らを断罪するかのように、村には疫病による死者が溢れたが、大地が新たな死者の受け入れを拒んだために、ダルガフスの墓は地上に作られるようになり、今日に至ると伝えられている。
古き伝統を残す埋葬方法
死者の街は、考古学的にも貴重な墓地遺跡とされている。
墳墓の中には木製のボート型の棺が収められている物があり、オールが添えられたものまである。これは死者の魂が死後に渡る広い川を渡れるように、遺体をボートに乗せて副葬品と共に埋葬する習慣がこの地にあったことを示している。
現在は北オセチアの人々の実に70%以上がキリスト教正教会の信徒であるが、死後に川を渡るという考え方は、仏教の「三途の川」に近いものがある。
墳墓は大きなものでは高さが約5mにもなる。構造は大まかに分類して3種類あり、屋根がついた民家のような形の建物、半地下状の四角い建物、完全に地下に埋まっている部屋に分けられる。
建物に玄関のような入り口はなく、遺体を入れるための四角い穴が1つだけ空いている。どの墳墓の中にも無数の人骨が散乱しており、観光客が中に入ることはできないが、穴から内部を覗くことは可能だ。
高山から吹き下ろす冷たく乾いた風の影響で遺体の状態が保たれやすく、埋葬されている遺体の中には白骨化せずミイラになった者や、ミイラになりかけている者もおり、遺体の数はなんと1万体以上にも及ぶという。
地元には「死者の街に入れば二度と帰ってこれなくなる」という伝説が伝わっており、現地の人々が好き好んで墓地に立ち入ることはない。
また墳墓の近くにはコインが散乱しているが、これはオセチアの人々が故人のために丘からコインを投げ、それが石に当たれば、故人の魂が天国にたどり着いたことを示すという信仰があったからだ。
このコイン投げの慣習は、墳墓の前に作られた井戸でも行われていたという。
現在の死者の街
かつては近隣の住民にしか存在が知られていなかった「死者の街」だが、現在は世界的に有名な観光地となっている。
政情が不安定な地域にあるため日本からの渡航は容易ではないが、マニアックな海外旅行好きの間では「一生に一度は行きたい場所」とも言われている。
もし幸運なことに死者の街に行く機会があれば、好奇心だけでなく死者への敬意を忘れずに持って行ってほしい。
そこに眠っているのは作り物ではなく、私たちと同じように疫病の恐怖と戦った、かつて実際に生きていた人々の骸とその魂なのだから。
過酷な自然の中で生きていくには、人々は協力する必要があった。そして人々が支え合うための共同体を守るには、疫病の芽は早いうちに摘まなければならなかった。
まだ命があるにも関わらず、誰に看病されるでもなく1人暗がりで自らの最期を待った人々は、何を思っていたのだろうか。
参考文献
ブルーノ・マサンエス (著), 熊谷 小百合 (翻訳)
『ユーラシア 「超大陸」の地政学』
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