第二次世界大戦が始まった1939年から1940年にかけて、イタリア北部の町・コレッジョで小さな雑貨店を営んでいたレオナルダ・チャンチュリという女性が、世にもおぞましい遺体損壊、遺体遺棄事件を起こした。
1939年、知人のファウスティーナから結婚相談を求められたレオナルダは、彼女を自宅に招いて毒殺し、遺体の一部から石鹸やケーキを作って隣人に振る舞ったうえ、自分の雑貨店で販売までしたのだ。
さらに、仕事の相談に訪れた知人のフランチェスカと、ヴィルジニアに対しても、同様の手口で犯行を重ねたのである。
後にレオナルダは「コレッジョの石鹸職人」「ソープメーカー」と呼ばれるようになり、シリアルキラーとしてイタリアの犯罪史に名を残すことになる。
レオナルダは、なぜそのような残虐非道な犯行に走ったのであろうか?
目次
母親から「呪われた子」と言われ続けた幼少期
1894年4月18日、レオナルダはイタリア中南部の町・モンテッラで生まれた。
彼女の母親アメリアは、性的暴行の結果としてレオナルダを出産した。
望まない出産であったため、アメリアは彼女に対して日常的に虐待を行っていたという。
レオナルダは、母親から「お前は呪われた子だ」と言われ続けて育った。
家族は貧困に苦しんでおり、レオナルダは10代の頃に2度の自殺未遂を起こしている。
これらの経験は彼女の精神に深刻な悪影響を与え、後の犯罪行為の一因になったと考えられている。
13人の子の死・詐欺罪で逮捕・地震で自宅倒壊
1917年、レオナルダはラファエレという男と結婚する。しかし、新しい生活もまた困難に満ちていた。
彼女はラファエレとの子を17回妊娠したが、うち3回流産し、10人の子どもが幼少期に亡くなった。
1927年には詐欺罪で逮捕され、数ヶ月を刑務所で過ごした。
さらに、1930年にイタリア南部のイルピニアで起こった地震で自宅が倒壊。
これらの悲劇はレオナルダの精神をより不安定にさせたが、彼女は家族とともにイタリア北部のコレッジョに移住し、小さな雑貨店を開業、生活の再建に取り組んだ。
その一方で、幼少期に母親から言われ続けた「お前は呪われた子どもだ」という言葉は、脳裏からなかなか離れずにいた。
立て続けに子を亡くし、詐欺罪で逮捕され、地震で家を失うという不幸が続いたことで、レオナルダの中で「呪い」の囁きは信念へと変わりつつあった。
占い師「右手には監獄が、左手には精神病棟が見える」
ある時、レオナルダは占い師を訪ねて、自分の運命を占ってもらった。
占い師は、失意のレオナルダに追い打ちをかけるかのように、こう告げた。
「あなたの右手には監獄が見え、左手には精神病棟(犯罪者保護施設)が見える。」
占い師の予言を聞いたレオナルダは、「自分は呪われている」という信念を確信に変え、今までの不幸はすべて呪いの結果と捉えたのだった。
そして、自らの呪いを解くために、さまざまな占いや魔術、儀式に傾倒していくようになった。
息子の命を守るため、3人の女性を生贄に
1939年、第二次世界大戦が勃発し、レオナルダの息子たちにも国から徴兵令が届いた。
彼女は息子たちが戦場で死ぬことを恐れ、「自分の呪いが息子たちの命をも脅かしている」と怯えるようになる。
実際に、過去に妊娠した17人の子どものうち13人を亡くしているため、呪いを恐れ、絶望感に苛まれた。
レオナルダは、ますます占いと魔術にのめり込んでいった。
そして、助言を求めた占い師から
「呪いを解くためには、生贄を捧げる必要がある。」
と教えられたレオナルダは、この言葉を真に受けた。
「他人の命を犠牲にすることで自分の呪いを解き、息子たちを守ることができる」という妄信に取り憑かれてしまったのだった。
こうして知人女性3人に標的を絞り、「生贄の儀式」として前述した犯行に及んだのだった。
遺体の一部で石鹸やケーキを作ったのは、何らかの儀式的な目的を果たすためだったとされている。
石鹸を「浄化の象徴」と捉え、遺体から作られた石鹸を使用することで呪いを洗い流せると考えたのだろう。
ヴィルジニアの妹からの通報により逮捕
三人目の犠牲者、ヴィルジニアがこの世を去った後、「ヴィルジニアが失踪した」と騒動になった。
ヴィルジニアは、もともと有名なオペラ歌手であったため、突然行方をくらましたことに多くの人々が困惑したのだった。
とくにヴィルジニアの妹は、姉が自宅に戻らないことに強い疑念を抱いていた。
妹は、姉が最後にレオナルダと会ったことを知っていたため、警察に通報する。
警察は「ヴィルジニア失踪事件」として動き出し、レオナルダの家を捜査することになった。
レオナルダの自宅を捜査した警察官たちは、そこで衝撃的な光景を目の当たりにする。
家の中には、遺体の一部やキッチン道具、犠牲者の所持品が散乱していたのだ。
これらの証拠品がレオナルダの残忍な犯罪行為を裏づけ、彼女は犯行を認め逮捕された。
レオナルダの自白と裁判、有罪判決
警察の取り調べを受けたレオナルダは、3人の女性を殺害したことや、石鹸やケーキを作ったことを詳細に語った。
彼女は、それらの行為は呪いを解き家族を守るための「生贄の儀式」として正しいことだと主張したが、警察や司法関係者には到底受け入れられなかった。
レオナルダの裁判は、1946年に行われた。
彼女は裁判所でも冷静かつ詳細に自らの犯罪行為を説明し、その動機についても語った。
その結果、レオナルダは有罪判決を受け、3年間の精神病院での拘禁と30年の懲役刑を宣告された。
奇しくも、最初に頼った占い師による「あなたの右手には監獄が見え、左手には精神病棟(犯罪者保護施設)が見える」という霊視が的中したのであった。
レオナルダの裁判と有罪判決は多くのメディアで報道され、イタリア全土に衝撃を与えた。
特別訓練を受けた看守たち
彼女は、ナポリ近郊のポッツオーリ刑務所に収監された。
彼女の異常な犯罪行為は広く知られていたため、他の受刑者や看守たちからは特別な注意が払われていた。
隔離措置がとられ、24時間体制での厳重な監視、心理学者や精神科医による定期的な精神状態のチェックが行われた。
看守たちは、レオナルダの呪いや生贄、魔術や儀式など、狂信的な性質に対応するための特別な訓練を受け、彼女が他の受刑者とは異なる心理状態にあることを理解し、その対応方法を学んだという。
52歳で収監されたレオナルダは、所内での厳しい生活に苦しみ、健康状態は次第に悪化していった。
晩年には、深刻な関節リュウマチと心臓病に苛まれていたという。
事件発覚から30年後の1970年10月15日、レオナルダはポッツオーリ刑務所内の精神病院で脳出血を起こし、76歳で死亡した。
彼女の死は、イタリアで大きなニュースとなり、多くのメディアでその最期が報じられた。
さいごに
レオナルダの死後、彼女の犯罪は世界中からさらに注目を集めることとなった。
ローマの犯罪博物館には、彼女が作った石鹸やケーキのサンプル、使用した道具が展示され、今でも多くの訪問者たちがその異常性と残虐性に驚愕している。
レオナルダの事件は、生い立ちと精神的な恐怖、呪いに対する強い信念が、どのようにして極端な行動につながるかを示す例として、犯罪心理学や法医学の研究において重要なケーススタディとして扱われている。
彼女の犯行は、今後も多くの研究者によって研究され続けるであろう。
参考 :
『Deadly Soap-Maker of Correggio: The True Story of Leonarda Cianciulli a Superstitious Mother Who Turned Victims Into Soaps and Cakes』Genoveva Ortiz, True Crime Seven 著
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