皆さんは、キリスト教伝来をどのように覚えているだろうか
「あのザビエルが伝えたのでしょう?」という人も多いかもしれない。実際歴史の教科書では、戦国時代ごろに伝来している。実は、平安京とキリスト教がつながっていると言ったら、驚かれるだろうか。
話は平安京よりさかのぼり、聖徳太子の時代になる。聖徳太子のそばに「秦氏」という謎の一族が仕えていた。この秦氏、日本人ではなく、大陸から来た渡来人なのである。聖徳太子のブレーンとして大活躍した秦河勝はこの一族の長である。
秦氏は、東方キリスト教という宗派に改宗したイスラエル人という説がある。
三柱鳥居と三位一体
京都・太秦にある木島坐天照御魂神社がある。この神社に行ったことがある人はたぶん首をかしげたのであろうと筆者は思う。「三柱鳥居」という三脚型の奇妙な形の鳥居があるのだ。この鳥居は、唯一神の持つ「3つの神理」を表すとされている。キリスト教に少し詳しい人は、どこかで聞いたような言葉ではないだろうか?そう、キリスト教も「三位一体」なのである。この三柱鳥居は奈良・大神神社の大三輪崇敬会本部にもあり、説明書もあるので立ち寄った際に見てみるといい。この説明書には、神社にありながら丁寧にキリスト教の用語で説明されているのだ。この太秦の神社を建立したのは、誰でもない秦氏である。このように、秦氏は神道ながら三位一体神信仰を持っていたことがわかる。
多胡羊太夫の碑
さて、皆さんの身近に「稲荷神社」はないだろうか?この稲荷神社を建立したのも、秦氏の一族なのである。稲荷神社といえば白い狐というイメージが強いと思うが、これはだいぶ後に、弘法大師・空海が後付したものである。白い狐の事を「稲荷」と言わないのであれば、何を意味し、どんな神なのであろうか?普通に読めば「稲荷」と書いて「イナリ」など読めない。完全なる当て字なのだ。本当は万葉仮名で「伊奈利」と書いた。現代であれば外国語をカタカナで表現するが、当時は同じように漢字を用いて当てはめていた。どっちにしても当て字なのである。
7世紀に生きた秦氏のうちの一人、羊太夫という人がいる。群馬県高崎市にその碑がある(多胡碑)。その石碑の周りから「JINRI」と書かれた古銅券が発掘されている。このようなことから秦氏の羊太夫が「JINRI」という文字を極めて大事にしていたことがわかる。では、その「JINRI」とはなんなのだろうか?これは「INRI」とも記され、ラテン語の頭文字を合わせたものである。その意味は、「ユダヤの王ナザレのイエス」というのだ。つまり羊太夫や秦氏の一族は「ユダヤ人の王ナザレのイエス」への信仰心を持っていたと推測できる。そうわかれば、三柱鳥居の意味も分かる。戦国時代よりも前にキリスト教は伝来していたのである。
聖徳太子時代の唯一神の神道の神は、元をたどっていくとイスラエルの「主の道」における神ヤハウェに他ならないのである。神道家・平田篤胤の弟子のひとり、渡辺重石丸という人がアメミナカヌシは聖書のいう神ヤハウェだと唱えている。平田篤胤も天地万物には大元高祖神が存在し、その名前を「天御中主神」と称すと述べている。その神は、はじめもなければ終わりもなく、天上にあって天地万物を生じる徳を持ち、蛮勇を主宰していると説いている。まさしくこれは聖書の神ヤハウェではないか。日本の神道は根源はキリスト教そのものなのである。
丁字型の平安京
さて、聖徳太子に仕えていた秦氏だが、聖徳太子の死後も日本にいた。聖徳太子の死後90年ほどたった711年に、イナリ神社の総本山となる伏見稲荷大社を建立している。秦氏と京都といえば、「平安京」を思い浮かべる方もいるだろう。やっとここで平安京の文字が出てきた。
皆さんは、授業などで平安京のことを中国、当時は唐だが、そこの都である長安をモデルに碁盤の目のように路地を巡らせて作ったと習ったと思う。実際に筆者もそう学んだ。では、実際にきれいな碁盤の目をしているかと言われれば、そうでもないというのが地図からもわかる。
丁字型に作られているのがわかるだろうか。百科事典や平安京の地図の乗っている本を見ると、正方形に近い区画の部分と、長方形の区画の部分がある。平安京の地図から、長方形の区画の部分だけを抜き出すと、丁字型になるのである。この形には意味があり、「やっこ(奴)」、もしくは「ひとがた(人形)」という形である。
さて、話は少しそれてしまうが、イエスが磔刑に処された時の十字架の形をご存知の方はいるだろうか?皆さんは「教会などで見られるとおりの形だろう」と思うだろう。筆者は幼稚園・高校とカトリック系のところに通っていたが、同じく十字と学んだ。洗礼を受けたわけではないから、たまたま知らなかっただけかもしれないが、十字とならったのである。
だが、イエスが磔刑に処された時代の十字架は形が「T」の字に近かったという。教会に見られるあの状態ではなかったというのだ。そして、刑に処されているのだから、十字架の頭上部分には「この十字架に磔刑に処されているのはだれか」という名札のようなものをつける。日本でも「さらし首」になった場合、その首の横に名前を書いた板を置いた場合もある。同じようなものだろう。イエスにも「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と書かれていたのだ。
そういえば、磔刑は日本古来からあったわけではないのだ。では、いったい誰がいつ磔刑を知ったのであろう・・・・?それは宣教師が織田信長に謁見した際に教えたのだといわれている。信長はキリスト教を弾圧しなかったので、信長の時代に磔刑はなかったと思われている。数回信長は宣教師たちと会い、キリスト教についてだけでなく、世界についても教えてもらっていた。「今立っている地球は球体」というのを日本人で初めて理解していたのも信長である。第六天魔王とまで言われ、怖れられた織田信長だが、こんなエピソードがあるのをご存じだろうか?
ある日、織田信長は宣教師たちと謁見をした。その宣教師たちの中に黒人がいたのである。自分たち日本人や白人の宣教師たちとも違う肌の色にさぞかし驚いたことであろう。「墨を塗る修業中か?」と興味津々に聞いたという。宣教師たちがそういう肌の色なのだと説明しても納得せず「目の前で洗ってみせよ」と命じた。その黒人宣教師は風呂に入ったが、そのあとの信長の言葉が面白い。「黒かったが洗うとよりきれいな黒になった」といったのである。戦場では恐怖の対象でしかない織田信長も、実は茶目っ気があるのだ。ちなみに、信長に伝わった磔刑は豊臣の時代になり使われることになる。
磔刑の方法
磔刑の話が出たので、少し磔刑について話しておこうと思う。
磔刑を申し渡された罪人は、まず鞭打ちに遭う。イエスの時代には動物の小骨などがついたばら鞭が使われていた。一本の太い鞭を持った数人が鞭打つというケースもあれば、とげのあるばら鞭を数人が持ち、鞭打つというケースもあり、さまざまである。鞭打ちに遭い、立ち上がることもまっまならなくなったところで、自分が磔になる刑台を運ばされる。人間一人を支える物なので相当重い。それを一人で処刑場まで数百mから数km運ばされる。倒れれば鞭打たれ、家族や友人たちなどが手伝おうとしたら彼らまで鞭打ちされる。処刑台につくと両手を釘などで固定される。
手のひらにくぎを打たれたと思っている方も少なくないだろうが、人間の骨格を考えると不自然であり、磔刑に処するには手首に釘を打たねばならない。その後、槍で心臓を突かれて磔刑の終了と思われているがここも少し修正しておく。あの姿勢は体勢的に厳しいのである。壁などで試してみるとわかるが、意外とできないものである。受刑者の両腕に自重がかかり、受刑者は肩を脱臼する。その結果、胸に自重がかかり横隔膜の活動が妨げられる。受刑者は呼吸困難になり、血中酸素濃度は低下する。血中酸素濃度の低下により心臓は心拍数を高め、これが血中酸素濃度の低下に拍車をかける。やがて受刑者の全身の筋肉は疲弊し、肺は肺水腫を起こし、さらに酸素が欠乏し、心筋は疲弊し尽くして機能を停止し、受刑者は絶命に至る。その後、槍で心臓を突くのではなく、肋骨の間を槍で貫通させるのである。
平安京に遷都した理由
さて、話を戻そう。なぜ繁栄していた都をわざわざ草木の茂る野原、ゼロの状態から作り直したのであろうか?今なら大型クレーンなどの重機を作り、5年ほどの月日を投じればニュータウンが完成するであろう。しかし時代は平安朝。そんな重機もなければ、鋸などのいい道具のない時代である。その後平安京は応仁の乱で焼失し、衰退するまでは首都として機能した。
平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の延暦12年(793年)の1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する。というのは有名な説である。
ほかには疫病がはやり、逃げるように都を移したという説や、悪霊の祟りにより都を移すしかなかったという説もある。だが、もう一つ有力な説ではないが、参考程度ということで面白い説があるのをご存じだろうか?それは、「天皇の権力を誇示するため」である。現代と少しだけ違い、天皇の地位は当時は立場が違った。と言っても天皇であることに変わりはない。たびたび権力争いを起こしていたのである。宮中ですら「幼帝など認めたくはない」という考えの平安貴族もいたというのだから、その下にいる豪族などにとってはどうであろう。きっと内心は鬱陶しい存在でもあっただろう。そんな中なのだから、「自分は都を移せるほどの権力があるのだ」と見せつけたくもなってくる。そんな「天皇である地位・権力を誇示する」という説は人間味があって面白い。疫病から人々を守るため、という説もいいが、こっちの説の方がつい笑ってしまう。工事に携わる側の人間にとってはたまったものではないが、大工事は行われた。
秦氏の役割
さて、平安京の形が「丁字型」になるというところまで話を戻そう。この形は、キリストがかけられた磔刑の形である。平安京は、キリストがかけられた十字架の形だったのだ。「丁字十字架」の罪状書き板のところにちょうど伏見稲荷大社の元宮が置かれているのだ。
船岡山というあまり大きくない山があり、伏見稲荷大社の元宮がある。ここは「稲荷命婦元宮」と呼ばれ、伏見稲荷大社のもとになった宮なのだ。隣にある末社の義照稲荷神社も、伏見稲荷大社より先に作られている。さてさて、これはたまたまの偶然なのだろうか?建築上、いい土地がそこにしかなかったからというわけではあるまい。おそらく秦氏の一族は、気の遠くなるような長い長いスパンでもって、日本列島にキリスト教的要素を埋め込んでいこうと思ったに違いない。
聖徳太子の時代から、平安京を建設するにしても、ずっと秦氏の一族が絡んでいる。実際のところ、平安京建設に際して、秦氏が役割は極めておおきい。なにしろ、平安京を作った土地そのものは秦氏の一族のものだったのだ。秦氏の一族の本拠地であり、しかも天皇の邸宅・・・現代で言う皇居にあたる内裏が置かれた場所は秦氏の邸宅があった場所なのである。
平安貴族が稲荷神社に参詣するということは、元をたどれば教会へ行くのと同じ意味になるのである。時は経って、キリスト教弾圧の時代にも、稲荷神社に人々は参詣した。秦氏の一族の「キリスト教の考えを日本に浸透させる」という野望は達成され、現代までに至るのである。日本史の教科書のキリスト教伝来の部分がかわる日が来るのであろうか。歴史の教科書に秦氏の一族の一連の働きが載ったとき、秦氏の一族の芯の野望は達成されるだろう。
きらびやかで雅なイメージのある平安京と関係のなさそうに思われるキリスト教だが、もっと昔からキリスト教はあったのである。当時の日本人はキリスト教の教えをどのように説かれ、稲荷神社に詣でていたのであろうか。平安貴族が十二単を纏い、牛車に乗って当時はキリストを祭っているといっても過言ではない稲荷神社に参詣していたと思うと、感慨深い。「自分のうちは代々お稲荷様だ」という人たちは、元をたどっていけば敬虔なるキリスト教徒でもあると考えてもいいのかもしれない。
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なんでローマ字なの?
ユダヤ教のほうが神武東征前にユダヤ人の亡命帰化により日本国に入っていた可能性が大きい。
日本の古称は「ひむかいのくに」であり旧約聖書に出てくる「良き隣人」である「ヒッタイト」と同一だという説が欧米で唱えられている。
これが、東に東征し、大陸領土をうしない日本列島に閉じ込められたのが現在の姿である。
>日本の神道は根源はキリスト教そのものなのである
それは、完全な間違えである。
神道はキリスト以前からヨーロッパにひろまったアーリア人の信仰なのであって、キリスト教により弾圧され、ヨーロッパでは消滅した信仰なのである。
クリスマスはそのささやかな抵抗であり、表向きはキリストを祝っているが実際は太陽神天照をいわう「にい(new)なめまつり(mas)なのである。
ヨーロッパに起こった神道のほうがはるかに歴史が古いのである。
縄文人が日本人になったなんてでたらめを歴史でならったためにおかしなはなしがでてくるのだ。
縄文人はアイヌ人で日本人とは対して関係ない。
日本人は、鉄を発明して、よろーっぱから混血しながら東アジア、太平洋まで攻め込んできたのだ。
その後、大陸では高句麗のように唐新羅によって滅びたのだ。