聖パトリックはアイルランドの守護聖人である。
彼の命日である3月17日は「聖パトリックの日」という記念日であり、アイルランドやアメリカでは盛大な行事が行われている。
聖パトリックの生涯と、アイルランドの国花であるシャムロックの関係を調べてみた。
アイルランドに拉致される
聖パトリックはラテン語でパトリキウスと表記される。正確な誕生年は不明だが、彼は387年~390ごろにウェールズ地方で誕生したとされている。両親は熱心なキリスト教徒だったが、パトリキウスは信心深い性質ではなかった。
16歳の時に、パトリキウスは海賊に襲われ、アイルランドに売り飛ばされる。
アイルランドの北東部アントリムを領地に持つミリューク王の元で、パトリキウスは羊飼いとして6年間を過ごした。奴隷として過ごした孤独で過酷な日々が、パトリキウスを信仰に目覚めさせたと言われている。
ある夜、パトリキウスは神の声を聞く。啓示に従って彼は王の元を逃れ、数年かけて家族の元に生還した。
アイルランドへの布教を決意する
※アイルランドの地図。wikiより引用故郷に戻ったパトリキウスだが、彼は家族との平穏な暮らしを選ばなかった。
ウィクトリウスというアイルランドの知人の幻から、手紙を受け取ったためである。「また我々と共に歩んでほしい」というアイルランド人の訴えに導かれ、パトリキウスはキリスト教の布教のためにアイルランドに戻ることを決意した。
パトリキウスの両親は、息子のアイルランド行きを反対した。彼がこの地で奴隷として酷使されたことを考えれば当然だろう。だが両親の訴えを振り切り、パトリキウスは神学を学ぶためにヨーロッパ大陸に渡った。彼が学んだのは、ランスのカンヌ沖合にあるレランス島修道院だと考えられている。
16歳でアイルランドに売られたパトリキウスは、ローマ帝国の公用語であるラテン語の教育を十分に受けることができなかった。そのため、彼は神学の勉強に人並み以上の労力を強いられたが、司祭から司教へと階位を上げ、432年にはローマ教皇ケレスティヌス1世から布教の命を受けてアイルランドに渡った。
アイルランドの大司教となる
パトリキウスが布教を行うよりも早く、アイルランドには既にキリスト教徒が存在していた。
ローマ法王ケレスティヌス1世は、431年にアイルランドに司教パラディウスを派遣している。パラディウスはアイルランドでの布教に失敗して追放され、スコットランドで亡くなったとされている。
当時のアイルランドでは、氏族の長が王を名乗って争いを繰り広げていた。時には命の危機にさらされながらも、パトリキウスは1人の殉教者も出すことなくキリスト教の布教に成功した。
444年にパトリキウスはアルド・マーハ(現在の北アイルランドアーマー州)の大司教となった。彼はヨーロッパの教会制度を参考にして、アイルランドの北部、中部、西部に司教を派遣した(当時のアイルランド南部では異教の神々が信仰されていた)。
パトリキウスの伝道により、アイルランドでは奴隷売買が廃止された。だが、410年にローマ帝国軍が撤退したグレートブリテン島では武力衝突が発生し、ブリトン人の王コロティクスの軍勢がアイルランド北部に侵入した。大勢のアイルランド人が奴隷として連れ去られたことにパトリキウスは怒り「コロティクスへの手紙」を書き残している。
パトリキウスは461年3月17日に亡くなったとされている。彼が自らの人生を著した「告白」を残しているが、それ以外に彼の生涯に関する記録は残されておらず、不明な事も多い。
聖パトリック 伝説
パトリキウスは17世紀に列聖された。アイルランドから蛇を追い出したことは、聖パトリックが起こした奇跡の一つして知られている。
アイルランドの王にキリスト教の三位一体の教義(父なる神と子であるイエス・キリストと聖霊はひとつである)を説明するにあたり、聖パトリックはシャムロック(クローバーやカタバミなどの葉が3枚に分かれた植物の総称)を用いたとされている。
3月17日の「聖パトリックの日」に胸にシャムロックを付けるのは(シャムロックの代わりに緑のものを身に着けるケースもある)、シャムロックが聖パトリックのシンボルであることに由来する。
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