はじめに
禅宗の開祖は達磨大師(だるまたいし)とされている。いわゆる「ダルマさん」のモデルである。しかし達磨は多分に伝説上の人物であり、実在も定かではない。
では事実上の開祖と呼べる人物は誰であろうか。それが禅宗の六祖とされる慧能(えのう)である。
現在世界中に広まる禅の流れをさかのばれば、全て彼にたどり着くという。 だがこれほど重要な人物でありながら、その生涯は広く知られているとは言えない。 しかし彼の生涯こそ、現在にまで伝わる禅の、本質と真髄を見事に表現した物語となっている。
いったい慧能とはどのような人物であろうか。ここからはその生涯を紹介していきたいと思う。
禅との出会い
慧能は638年、新州(今の香港付近)の百姓の家に生まれた。 幼くして父を失くした家は極貧を極め、慧能は薪や柴を売って飢えをしのいだ。 長じての彼は、背の低い醜男であったという。
そんな慧能に人生を変える出来事がおきたのは彼が24才の時。 町で柴を売っていた彼は、客が「金剛経」の一節を誦しているのを聞き、心揺さぶられる。 聞くと客は、黄梅にいる禅宗の五祖、弘忍のところから来たという。
さっそく慧能は黄梅に行き、五祖弘忍と面会する。 面会の時、慧能は簡潔に自分の思いを訴えた。
「自分は新州の百姓です。仏になる法を求めています」
それを聞いた弘忍は慧能を試すようにこう言い放つ。
「君は嶺南の野蛮人、仏にはなれまい」
嶺南(れいなん)とは、北方中国人から見た南方という意味で、慧能の生まれた新州も当然、嶺南であった。 この時代、中国の文化は北方を中心に栄えた。 北方から見た南方は文化果てる場所、未開、野蛮の地と思われていたのであった。 それ対して慧能は
「人に南北はありますが、仏性に南北などないでしょう」
と答えた。 この返答に弘忍は慧能の力量を認め彼を弟子とした。 以降、慧能は碓を踏んで米つく仕事を中心に、寺での作務(禅堂での労働全般)に励んだ。
法の伝授
在家のまま修行をはじめて八ヶ月が過ぎた頃、五祖弘忍は己が後継者を決めるためのテストを出す。
それは門人たちに詩を作らせ、その詩の出来によって彼らの境地をはかろうとするものであった。そしてこのテストに合格したものに、代々伝えられてきた禅の法と、その伝授のしるしである袈裟をあたえるというのである。
これに名乗りを上げたのが神秀(じんしゅう)という人物である。神秀は長身で眉目秀麗、博学で人格にも優れていた。
諸国遊歴の後、弘忍の門下になって6年、まず門弟中第一の人物といってよかった。
彼は次のような詩を作り、寺の廊下の壁に貼り出した。
「身は是れ菩提樹、心は明鏡の台の如し、時々勤めて払拭し、塵埃有らしむるなかれ」
人は元来、身は菩提樹のように、心は明鏡のように清浄である。
そこに塵やゴミがつかないように、時々ふきはらっておかねばならないというのである。
門人達は感嘆の声を上げ、この詩を讃えた。しかし弘忍は、この詩は未だ悟りに至っていないと言い、合格とはしなっかった。
そしてこの詩の噂は、相変わらず一日中米をついていた慧能の耳にも入った。
彼は自らも詩を作ったが、貧しさゆえに文字の読み書きが出来なかった彼は、他の門人にそれを書き記してもらい、神秀の詩の横に貼り出した。
慧能の詩は次のようなものであった。
「菩提本樹無し、明鏡亦台に非ず、仏性常に清浄、何処にか塵埃を惹かん」
菩提といっても樹ではない、明鏡といっても台ではない、ひとの身心は常に清浄そのものである。
どこに塵やゴミがつくというのかというのである。
門人達から神秀の時より、ひときわ大きい感嘆の声が上がった。
弘忍もまた、慧能こそ自分の後継者にふさわしい大器量であることを見抜いた。
だが神秀をさしおいて新参者の慧能を合格とすれば、激しい反発が起きることは必至であったので、表向きは合格としなかった。そこで夜半、弘忍は慧能を呼び、後継者の証である袈裟を与えて寺から逃がした。
慧能の身に危害が及ぶことを恐れての処置であった。
六祖誕生
その後、慧能は故郷にもどり、市井の人々にまじって暮らした。その暮らしの中で禅境を深め、かつ楽しむ生活を送ったのである。
そして16年もの歳月が流れたある日、慧能は言い争う二人の僧と出会う。
風の中ではためく旗を前に、一人の僧は言う。
「旗が動くのだ」と。
一方の僧はこう言い返す。
「否、風が動くのだ」と
この問答を聞いた慧能は二人に言い放った。
「旗が動くのでもない、風が動くのでもない、あなた達の心が動くのです」と。
この言葉に二人の僧は驚嘆し、思わず体を震わせたという。
後日この話を聞いた印宗という僧侶が慧能に強い関心を持ち、慧能を己の寺に招いた。
慧能と話す中、彼こそが五祖弘忍の法を継いだ人物であることを知った印宗は、慧能を出家得度させ、具足戒を授けて正式な僧侶とした。
禅宗第六祖、大鑑慧能禅師の誕生であった。
まとめ
この話がどこまで実話であるかは、研究者によって意見が分かれる。
だがこの物語が禅の教えを見事に表現したものであることは、まぎれもない事実である。
慧能は容姿にめぐまれず、家は貧しく、学問もない、禅の修業歴わずか八ヶ月の在家の弟子であった。一方の神秀は、容貌、学問、キャリア、すべてを兼ね備えた俊才の僧である。
世間的尺度でいえば、慧能は何一つとして神秀に遠く及ばない。
にもかかわらず弘忍が後継者としたのは慧能なのである。この説話はまさに禅の教えそのものなのだ。
悟りの境地は、容貌はもちろん、学問の有無も、家柄も社会的地位も、僧侶と在家の立場も、さらにはキャリアすらも関係ないと。なるほど世間における仕事や習い事ならば、キャリアも大事であろう。だが悟りとは、人が等しく持っている仏性への確固たる気づきであり、時間をかけて上達を重ねるものではないからである。
世俗の価値や権威(例えばキャリア)、それを誇り頼みとする人の心。
そこから離れた時、人は誰しも自由自在なる本来の自己に気付く。六祖誕生の過程はまさにその寓話である。 以降、慧能は残りの人生をかけ、禅の教えを説き広めていくことになる。
彼の元からは、青原、南嶽、神会などの名僧が多く生まれ、やがては五家七宗という、現在にまで続く禅の流れが形作られていったのである。
この記事へのコメントはありません。