ワールドワイドな観光地として、世界中から尋常ならざる数の人々が訪れる京都。
観光名所のみならず、街中にまで人があふれかえり、もはや京都フリークでさえ安住の場を見つけられないような現状に苛まれている。
それでも、京都に行きたい。そんな人におススメなのが「裏」の京都だ。
そして、京都はこの「裏」こそ面白い!
そこには、千年もの間、日本の都だった京都ならではの奥深いものがたくさん詰まっているからだ。
高級織物・西陣織の生産地「西陣」は、江戸時代になると、織物を商う大きな糸問屋や織屋が密集する西陣の織屋街が形成された。
そこには、一日に千両もの大金が動くと言われた、西陣織に関わった織元の旦那衆と職人達が暮らしていた。

画像:千両ヶ辻。かつて一日に千両もの大金が動いたとされた場所。(撮影:高野晃彰)
そんな彼らが遊興に耽ったのが、北野天満宮の東参道に広がる花街・上七軒と千本通と中立売通の西南一帯に広がる遊郭・五番町だった。
裕福な旦那衆は、上七軒のお茶屋で芸妓・舞妓を相手に遊び、そして、職人達は、五番町で遊女と一夜を過ごした。
今回は、京都の「裏」の中から、「西陣」に残る旧遊郭跡・「五番町界隈」を中心に紹介する。
京都最古の遊郭とされる「上七軒」

画像:昼間の上七軒(撮影:高野晃彰)
北野天満宮の東にある京都の花街の一つが「上七軒」だ。
その歴史は古く、室町時代にできた七軒の水茶屋を起源とする、京都最古の遊里である。
江戸時代には、北野天満宮への参拝者で大いに賑わったが、五番町が遊女街として発展するのに伴い、「上七軒」は芸妓を主とする花街としての形態を整えていったようだ。
五番町が遊女街として栄える一方で、「上七軒」は西陣の織元の旦那衆を顧客とした。

画像:上七軒歌舞練場。通年営業のカフェと夏場のビアガーデンが人気。(撮影:高野晃彰)
花街の一画にある「上七軒歌舞練場」は、上七軒の芸妓や舞妓のための歌舞音曲の練習場であり、発表の場でもある。
現在の建物は明治中頃に建てられたもので、現存する木造劇場として貴重な建築物として知られる。
その敷地内には、お茶屋の利用者でなくても誰でも利用できる喫茶処があり、由緒ある歌舞練場の雰囲気に浸ることができる。
また、夏の時期には「上七軒ビアガーデン」がオープンし、今では西陣の風物詩の一つとなっている。
普段は接することのできない浴衣姿の芸妓や、舞妓によるもてなしが受けられるとあって、大変な人気を博している。

画像:西陣の織屋街(撮影:高野晃彰)
歌舞練場の周辺は、今も西陣織の織屋が点在しており、路地の奥から響く機織りの音を聴くことができる。
今も遊郭の名残が感じられる「五番町遊郭跡」

画像:五番町に残っていた遊郭建築。(撮影:高野晃彰)
花街の上七軒に対し、主に遊郭として栄えたのが「五番町」である。
その跡地は現在の五番町、一番町、四番町の一部にあたり、当時はこれらを総称して五番町と呼んでいた。
1958年に赤線が廃止されるまで、この界隈は歓楽街として深夜まで賑わいを見せていた。
五番町と言えば遊郭のイメージが強いが、昭和初期までは「奥村楼」や「三福楼」といった妓楼に芸妓が在籍し、花街としての側面も持っていたという。
五番町が広く知られるようになったのは、水上勉の小説『五番町夕霧楼』の影響が大きいと考えられる。
この小説は、五番町の妓楼・夕霧楼で働く遊女・夕子と、その幼馴染との純愛を、悲しくも切ない女性の運命を通して描いた名作である。
映画化もされ、佐久間良子や松坂慶子がヒロインを演じている。ただし、夕霧楼は実在の妓楼ではなく、作者による創作であった。

画像:焼肉江畑。旧遊郭建築を改装した焼肉の名店。(撮影:高野晃彰)
五番町には、10数年前までは、ステンドグラスの嵌め込まれた窓や、紅柄格子が印象的な元遊郭の建物が多く残り、そのまま住宅やアパートとして使われていた。
しかし近年、そうした建物は次々と取り壊され、マンションや駐車場へと姿を変え、現在ではわずかに点在するのみとなってしまった。
それでも、この界隈には上七軒とは異なる、独特の空気が今なお漂っている。
特に夕暮れ時になると、街にぽつぽつと灯りがともり、かつての情景がふと蘇るような錯覚を覚えることがある。
こうした町並みが、いつまでも残ってほしいと願わずにはいられない。
彷徨える男たちのカオスの館「千本日活」

画像:千本日活の周辺はかつて映画産業で繁栄した。(撮影:高野晃彰)
「五番町」は、かつて遊郭で栄えた町であるだけでなく、千本通を中心に映画館や芝居小屋が立ち並び、文化の拠点としても賑わいを見せていた。
この町は、日本映画発祥の地として、映画産業においても栄えた歴史を持つ。
1910年には、牧野省三と尾上松之助らが協力し、一条通天神筋にある撮影所で『忠臣蔵』を撮影した。
この撮影所はのちに関西撮影所となり、大正中頃には約2千坪の大将軍撮影所へと発展した。尾上松之助が制作した映画は400本にも及ぶといわれている。
つまり、五番町は日本映画の黎明期において、燦然たる輝きを放っていたのである。

画像:千本日活(撮影:高野晃彰)
かつて映画のメッカであった五番町も、現在ではポルノ映画を上映する映画館「千本日活」が、ただ一軒、ひっそりとその名残をとどめている。
ちなみに、「千本日活」が建っている場所は、かつて五番町遊郭組合の事務所があったところである。
この映画館は、幾度となく廃業の危機に見舞われながらも、今なお営業を続けている。その存続の源は、経営者の熱意と、それを支える常連ファンの存在にあると言っても過言ではない。
ただ、入館するには、一般的な感覚を持つ人にとって少し勇気がいるだろう。それは、成人映画専門館だからという理由だけではない。
ここには、昭和の香りが色濃く残り、そして引き寄せられるように集まった男たちが醸し出す、混沌とした独特の空気が漂っている。
だが、千本日活はこれでいいのだ。これこそが、この“カオスの館”の真骨頂なのである。
新京極と並ぶかつての一大繁華街「西陣京極」

画像:現在の西陣京極(撮影:高野晃彰)
かつて「千ぶら」という言葉があった。
これは、東京銀座をぶらぶらするという「銀ぶら」と同じ意味で、千本通をぶらぶら歩くことを指していた。
千本中立売の、俗に「センナカ」と呼ばれる交差点には一大繁華街が形成されており、今でも軒を連ねる飲み屋などに、かつての華やかさの面影を見出すことができる。
その千本通を挟んで東側には、「西陣京極」と呼ばれる路地がある。
かつては新京極に対抗してこの名が付けられ、西陣織が盛んだった頃には、行き交う人々の肩が触れ合うほどの賑わいだったという。
この界隈も、20年ほど前までは飲食店が立ち並び、ゲイ映画の専門館などもあり、夜になると怪しげでレトロな雰囲気を漂わせていた。
西陣京極周辺は、西陣織の職人や北野天満宮の参拝客が集う、庶民で賑わう繁華街だったのである。

画像:すっぽんの名店・大市。五番町を代表する老舗。(撮影:高野晃彰)
さて、西陣に残る五番町遊郭界隈めぐり、いかがだっただろうか。
ちなみに、「千本日活」のカオスとは、彷徨える男たちが集う“ハッテン場”ということである。
京都の中心にありながら、どこか治外法権的な西陣のディープ地帯・五番町界隈。
ここは実に味わい深い。もし訪れるなら、夕方がおすすめだ。
遊郭の名残を求めて、五番町界隈をぶらぶら。
そして、日が暮れれば上七軒の路地の奥に灯る赤提灯に身を委ねるのも良し、中立売通あたりの老舗居酒屋を訪ねるのも良し。
観光地とはひと味違う、京都の奥行きにふれることができるはずだ。
※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 : 写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。