吉田城の歴史
吉田城(よしだじょう。愛知県豊橋市今橋町の豊橋公園)がある「吉田」は、東海道53次・吉田宿として有名で、「吉田」以前は「今橋」(いまばし。「いまわし(忌まわし)」に通ずとして「吉田」に改名)、「吉田」以後(明治以後)は「豊橋」(とよはし)と呼ばれています。
吉田城も明治時代の一時期、「豊橋城」と呼ばれていたようです。
吉田城は、永正2年(1505年)に、駿河今川家9代宗主・今川氏親(今川義元の父)が一色城主・牧野古白入道成時に命じて、三河国渥美郡今橋の入道ヶ淵に臨む丘に築城させた今橋城(吉田城の金柑丸。現在の豊城神社)を拡張した城です。
城が築かれる前は、土豪・渡辺平内治の屋敷や浄業院というお寺だったそうです。古代には渥美郡衙があったようですが、最終的に、吉田城は、東西1400m、南北600m、総面積84万㎡という広大な城となり、発掘調査はその総面積の約3%でしか行われていないので、その実態はよく分かっていません。
豊橋市は、JR豊橋駅に東海道新幹線が停まることもあって、ご存知の方が多いと思いますが、愛知県(東三河)東端の都市になります。西の西三河には松平氏、東の遠江国(静岡県西部地方)には今川氏、南の渥美半島やすぐ東の二連木城(豊橋市仁連木町)には戸田氏と、吉田城は、その位置から、激戦が繰り広げられる運命を持って築かれた城です。
実際、8回の戦いが行われ、城主は次々と入れ替わりました。
《今橋城(後の吉田城)攻防戦》
・永正2年(1505年)、牧野成時が今橋城(「峯野城」「歯雑城」とも)を築城
①永正3年(1506年)、戸田憲光が、牧野成時の今橋城を奪う。
②永正15年(1518年)、牧野成三が、戸田宣成の今橋城を奪う。
・大永2年(1522年)、「今橋城」から「吉田城」に改称(諸説あり)
③享禄2年(1529年)、松平清康が、牧野信成の吉田城を奪う。松平方の牧野成敏が入る。
④天文6年(1537年)、大崎城主・戸田宣成が、牧野成敏の吉田城を奪う。
⑤天文15年(1546年)、今川義元が、戸田宣成の吉田城を奪う。
⑥永禄7年(1564年)~永禄8年(1565年)、松平家康が、今川方城代・大原資良の吉田城を奪う。
⑦元亀2年(1571年)、武田信玄が徳川方の吉田城(城主・酒井忠次)を攻める。
⑧天正3年(1575年)、武田勝頼が徳川方の吉田城(城主・酒井忠次)を攻める。
・徳川家康の関東移封に伴い、池田照政(輝政)が城主になり、大改修して織豊系城郭となる。
西三河の松平氏の東三河侵攻関連の合戦は、松平清康(松平家康の祖父)の「第3次 吉田城の戦い」(「第1次下地合戦」など)と松平家康(永禄9年(1566年)、「徳川」に改姓)の「第6次 吉田城の戦い」(「第2次下地合戦」など)になります。
※「下地(しもじ)」は、吉田城とは吉田川(現在の豊川)を挟んだ対岸の地名です。
【第1次下地合戦】吉田城主・牧野信成 vs 松平清康
「第1次下地合戦」は、吉田城主・牧野信成ら牧野一族(牧野四兄弟)と松平清康(徳川家康の祖父)の戦いです。
牧野勢は豊川を渡り、「退くことはない」と渡し舟を流し、「背水の陣」で挑んだので、松平勢は押されましたが、大久保忠教『三河物語』によれば、「清康と内膳と、敵の中え懸け入り、懸け入り、下知をなし給ゑば」(松平清康(安祥松平氏)と松平信定(桜井松平氏)が馬に乗って戦場に入り、檄を飛ばすと)戦況は一変し、松平勢が勝利しました。
下地町の字名に「城向」「神田」「元神」があります。そこは下地水神社や東宮天王社があった場所で、牧野信成らの遺体は下地水神社の社領に埋められ、目印として松が3本植えられたので、「三本松牧野氏塚」と呼ばれていましたが、現在は神社も、松もありませんが、供養碑「吉田城主牧野一族之塚」(豊橋市下地町神田)が建てられています。
真っ先に松平方に寝返った牧野方の伊奈城主・本多正忠は、松平清康を吉田城へ迎え入れました。
次に、松平清康は、戸田宗光を倒そうと、田原城(愛知県田原市田原町巴江)へ向けて出陣すると、田原城主・戸田宗光は戦わずして降参し、松平清康から「康」の1字を貰い受けて「康光」と名乗りました。
東三河の二大勢力である牧野氏を滅ぼし(注)、戸田氏を服従させた松平清康が吉田城へ入ると、東三河の国衆や土豪たちが次々と訪れ、松平清康への従属を誓ったそうです。こうして、松平清康による三河国の統一がほぼ完成しました。あとは、織田氏の岩崎城(愛知県日進市岩崎町市場)や、熊谷氏の宇利城(愛知県新城市中宇利仁田)を落とせば、三河統一となります。
(注)吉田城の落城(牧野四兄弟の討死)により、今橋牧野家は滅亡したと思われましたが、妊娠していた牧野信成の正室が船で尾張国知多郡大野(現在の愛知県常滑市大野町)の実家(神谷家)へ逃れ、嫡男・牧野田蔵(伝蔵)成継を生んだので、今橋牧野家の断絶は避けられ、代々徳川家旗本を務めて、明治維新を迎えました。
松平清康が田原城から吉田城への凱旋の際、伊奈城主・本多正忠に誘われて、寄り道して、伊奈城( 愛知県豊川市伊奈町深田)に立ち寄ると、祝宴が開かれたそうです。この時、本多正忠は、伊奈城内の「花ヶ池」の水葵(ジュンサイ)の葉に酒肴を盛って出すと、松平清康は喜び、
「立葵は正忠の家の紋なり。此度の戦に、正忠、最初に御方に参て、勝軍しつ吉例也。賜らん」(新井白石『藩翰譜』)
と言って、本多家の家紋「立葵」紋をもらったのが徳川家の家紋「三つ葉葵」の始まりだそうです。(「三つ葉葵」の始まりについては諸説あり。)
また、第1次下地合戦に伴い、万歳師が矢よけのご祈祷を小坂井で行ったのが「小坂井三河万歳」の起源であり、「三河万歳」に発展したとする説があります。(「三河万歳」の起源については同時多発なのか、諸説あり。)
※参考:「安城三河万歳(別所万歳)」の起源(安城市中央図書館)
【第2次下地合戦】吉田城代・大原資良 vs 松平家康
「第2次下地合戦」は、永禄7年(1564年)~永禄8年(1565年)の吉田城攻めに伴う吉田城代・大原資良(小原鎮実と同一人物。吉田城主は駿府の今川氏真)と徳川家康の戦いです。
永禄7年の「第2次下地合戦」において、牧野右馬允康成(牛久保城主・牧野成定の子)が、本多忠勝と槍を合わせ、傷を負わせたそうです。(江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「忠勝と力戦し、ともに創をかうぶりしかば」とあります。)牧野康成はまだ10歳ですし、本多忠勝(17歳)は、まだ相棒「蜻蛉切」を手に入れていませんでしたが、「生涯戦うこと57度。されど、かすり傷一つ無し」の人物のはずですが・・・。
扨又、吉田え取り詰め寄せて、砦を取らせ給ひけり。喜見寺の砦には鵜殿八郎三郎、其外の衆、糟塚の砦には、小笠原新九郎、二連木口の砦には丹波が持つ。
下地え御働きの時、本多平八郎と牧野惣次郎が槍を合わす。(大久保忠教『三河物語』)
《牧野氏系図》 ※諸説あり
牧野古白成時┬【今橋牧野家(田蔵系)】成三─信成─成継─成里【徳川家旗本】…
└【牛久保牧野家(右馬允系)】成勝─貞成─成定─康成─忠成【長岡藩主】…
さて、この吉田城攻めにあたり、攻略拠点として、喜見寺砦と糟塚砦を築き、二連木城主・戸田丹波守重貞(戸田家15代宗主)が徳川方に寝返り、「松平丹波守」と名乗って味方しましたが、吉田城の様子がつかみにくかったようで、徳川家康は、新たに、聖霊山聖眼寺に本陣を設けました。
※喜見寺砦:呉服山喜見寺(きげんじ)は、第二次世界大戦後、新銭町(現在の広小路3丁目)から現在地・豊橋市花園町88に移転。遺構無し。
※糟塚砦:愛知県豊川市小坂井町樫王48。現在は大城山龍徳院となり、土塁が残る。
※聖霊山聖眼寺(しょうげんじ):旧・東海道沿いの愛知県豊橋市下地町3丁目3。
徳川家康は、聖眼寺の太子堂で必勝祈願をし、牧野氏が奉納した金扇を頂戴したのが「金扇馬標(きんせんうまじるし)」の起源だそうです(異説あり)。
この吉田城攻めは、年をまたいで長引きましたが、最終的に、聖眼寺の寺僧を使僧として吉田城に送り込んで和議(開城)を成立させた徳川家康は、吉田城に酒井忠次を入れました。
吉田城には、今川氏真より、小原肥前守鎮実を籠め置きて、岡崎の虚をうかゞへば、是に備へられんがため、岡崎よりも喜見寺、糟塚等に寨をかまへさせたまふ。(中略)小原鎮実も吉田の城を開き、田原、御油等の敵城もみな攻め落とされ、東三河、碧海、加茂、額田、幡豆、宝飯、八名、設楽、渥美等の郡、みな、御手に属しければ、吉田は酒井忠次に賜る。(『徳川実紀』)
※牧野康成(11歳)は、永禄8年(1565年)、今川氏を離れて徳川氏に付き、酒井忠次隊に属し、徳川家康の尽力で、幼いながらも、家訓「常在戦場」で有名な牛久保牧野家(後の長岡藩主家)を継ぎました。
※永禄8年(1565年)、田原城も徳川家康のものとなり、本多広孝が田原城に入ると、本多忠勝(18歳)は、田原の文珠包吉に槍の制作を依頼し、一番弟子の藤原正真が「天下三名槍」・蜻蛉切を制作しました。
いざ、吉田城へ
さて、前置きが長くなりましたが、出陣の時が来ました!
豊橋公園の無料駐車場(吉田城の東隣、安久美神戸神明宮跡地)に車を停めて、本丸へ向かいます。(鬼祭で有名な安久美神戸神明宮は、現在、吉田城の南隣に移転しています。)
金柑丸手前の水堀(と言っても、今は空堀)の先に豊川が見えました!
本丸に到着!
昔は本丸御殿がありましたが、今はありません。天守はもともとなかったようです。
4棟の隅櫓(すみやぐら)の内、最も大きく、古地図によっては「天守」と書かれてる本丸北西端の「鉄櫓(くろがねやぐら)」のみが復元され、内部は入館無料の資料館になっていて、入口に続日本100名城のスタンプがあります。
無事、続日本100名城のスタンプを押印し、展示資料を見学。
展示資料が多く、じっくり見ていると、1時間はかかります \(;゚∇゚)/
吉田城散策の楽しみ方の1つに、、
──石垣刻印探し
があります。石垣刻印は、天下普請の城の特徴ですが、吉田城の石垣は、名古屋城築城の残石を使っているので、刻印があるのだそうです。
発見されたのは約60で、現在確認できるのは約30だとか。風化が進んでいて、観光ボランティアガイドの方に「これがそうです」と言われて、「言われてみれば・・・」って状態ですので、石垣刻印探しをされたい方は、お早めの御登城を。
吉田城の感想
さて、吉田城へ行かれた方の感想は、
・好評:「平坦で起伏がないので歩きやすい」「駐車場も資料館も無料」「JR豊橋駅から路面電車で行ける」
・悪評:「発掘調査が進まず、見られる遺構が本丸周辺のみなのが残念」「堀に(当時のように)水が欲しい」
といったところです。
※今回の記事のテーマは「吉田城」ですが、隠しテーマは「下地合戦」です。「対岸(下地)から豊川越しに見る吉田城(鉄櫓)が素晴らしい」とよく言われますが、対岸は、今橋牧野氏四兄弟討死(一説に自害)の場であり、本多忠勝が牛久保牧野氏から生涯唯一の傷を負った場所(?)であることを知って、思いを馳せていていただきたいなと(なぜに上から目線?)。
※豊橋市美術館「吉田城」 http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=707
吉田城 周辺の見所
城郭
・二連木城(愛知県豊橋市仁連木町の大口公園。土塁と石碑があるだけですが; 明応2年(1493年)に田原城主・戸田宗光が築いた城。「仁連木城」とも。案内板に「昔、ここに楡の大木が茂っていたために二連木という地名がついたといわれている」とありましたが、「連理」「連理木」(2本の木が途中から繋がって1本になった木)では?)
寺社
・吉田山龍拈寺(愛知県豊橋市新吉町3。牧野信成が今橋城初代城主・牧野古白入道成時の菩提を弔うために建てた寺。東三河の国衆や土豪たちが今川氏真から徳川家康に寝返った永禄4年(1561年。「桶狭間の戦い」の翌年)、今川氏真は、吉田城にいた彼らの人質13人を龍拈寺の門前で公開処刑した。串刺し刑だったと伝えられている。)
・安久美神戸神明宮(愛知県豊橋市八町通3丁目17。豊橋市中心部は「あくみ(安久美、飽海)荘」という伊勢神宮領であった。安久美神戸神明宮は鬼祭で有名な神社である。ところで、竹千代(後の徳川家康)は、人質として、駿府(静岡県静岡市)に住んでいたという。松平親乗(大給松平家)が田嶋新左衛門尉に出した手紙(「田嶋家文書」)に、「竹千世吉田内節々御心遣」とあり、これは「竹千世、吉田内節々御心遣」(駿府に人質としている竹千代が、吉田城の人質のことを折にふれて御心配され)と読むが、「竹千世吉田内、節々御心遣」(竹千代が吉田城内に人質として居て、しばしば御気を遣われ)とも読めるという。安久美神戸神明宮に、竹千代が人質として吉田城にいた時、松の木の下の石に座って鬼祭を見たという伝承がある(「家康公御腰掛松」案内板参照)。竹千代は、短期間ではあるが、吉田城で人質生活を送ったことがあるのかもしれない。)
※公式サイト https://onimatsuri.jimdo.com/
史料
『徳川実記』から「第1次下地合戦」
享禄二年五月の頃、西三河は皆、御手に属しければ、是より東三河を打ち従へ、三州を一統さられんとの御志にて、牧野伝蔵信成が吉田の城を乗取らんとて、安祥を打ち立ち給ふ。信成、終にかまけて、兄弟をはじめ、主従、悉く討死す。かくて清康君は、直に吉田川の上の瀬を押し渡し、吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及ばず落ち行けば、清康君、その城に入て人馬の息を休め、一両日の後、田原の城に押し寄給ふ。城主・戸田弾正少弼憲光、大におそれ、これも忽に降参す。本多縫殿助正忠は、をのが伊奈の城に迎へて酒をすすめ奉る。清康君は此勢に乗じ、近辺の城々に押し寄せ、押し寄せ、攻め抜き給ふ。破竹の如き勢に辟易して、牛久保の牧野新次郎貞成、設楽の設楽禎三郎貞重、西郷の西郷新太郎信貞、二連木の戸田丹波守宣光、田峰・野田の菅沼新八郎定則、その外、山家三方、築手(つくで)、長間(ながしの)、西郷の輩、風を望みて帰降す。享禄二年、尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎、野呂(一に科野につくる)を攻め抜き、同じく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。
(注)『徳川実記』では、松平清康は、「岡崎の城を受取りて、御身は、猶、安祥におはしける」と、その居城を山中城や岡崎城に移すこと無く、ずっと安祥城にいたとしている。ここでも「岡崎城から吉田城に向けて出陣」ではなく、「安祥城から」とする。
大久保忠教『三河物語』「第1次下地合戦」
扨又、東三河をば牧野伝蔵が持つ。清康、東三河へ御働きとて、段々に備へ、岡崎を打ち出させ給ひて、押させられ給ふ。岡崎を立ちて、赤坂に御陣を取らせ給へば、先手、御油、国府(こう)に陣を取る。明けければ、赤坂を打ち立たせ給ひて、小坂井に御旗が立て、先手は押しおろして、下地の御位を放火する。吉田の城より是を見て、「小国を二人して持ちて、何かせん。今日、実否(じっぷ)の合戦して、東三河を清康へ付く物か、西三河を我れ取る物か。実否の合戦、爰なり」とて、大舟、小舟にて吉田川を打ち越す。「舟を置くならば、味方の心も未練出来がせん」とて、舟をば突き流して懸る。清康、是を御覧して、小坂より御旗を押しおろさせ給ひて、打ち向かわせ給ふ。伝蔵も下地ゑ押し上げる。清康は、下地の堤ゑ押し上げんとし給ふ。伝蔵も堤ゑ押し上げんとす。両方、堤の両の腹にしば付きて、半日ばかり、互いの念仏の声ばかりして、大事に思ひて、しんしんと心を鎮めて居たり。伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人、一つ処に、西の方にぞ居たりけり。清康と内膳は、両陣に向かつて東西を駆け回り、敵の中ゑ駆け入り、駆け入り、采を取り給ふ。然る所に御馬廻りの衆、走り寄り、ゆはれさる。「大将の敵の中ゑ駆け入らせ給ふ」とて、御馬の水付に取り付きければ、「あやかりめ。離せ」とて、采配を取りなおし給ひて、頬を打ち、御腰物に御手を懸けさせ給ひ、「離すさずば成敗せん」と仰せける所ゑ、内膳殿、駆け寄せ給ひて、「何者ぞ。あやかり、離せ。離して打死をさせよ。大将をかばう処が有る物ぞ。大将をかばいても、軍兵が負くれば、大将、共に打死をするぞ。軍兵が勝てば、大将も生きるぞ。離して下知をさせて、打死をさせよ」と仰せければ、離しけり。去る程に内膳は、敵味方に見しられんため、兜を脱いで取つて、カラリと捨て、清康と内膳と、敵の中え懸け入り、懸け入り、下知をなし給ゑば、何れも是に勢て、堤ゑ懸け上がり、槍を互いに投げ入るより、そのままつき崩して、川ゑ追いはめけり。伝蔵兄弟四人、是を見つヽ立ちければ、何れも負けじと立ちて槍を投げ入れければ、清康方、負けにけり。然れ共、清康の御旗本が勝ちて、吉田川ゑ追いはめ候故、清康と内膳、跡より懸からせ給ゑば、なしかはたまるべき哉。伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人を討ち取る。吉田の城には、女房共出て見て、「下地をふうするに、出て見よ」とて金剛を履きて出て、塀より見越して見る。清康君は、思ひの儘に合戦に打ち勝ちて、吉田川の上の瀬ゑ回りて、川を乗り越え、吉田の城ゑ即ち責め入り給ゑば、女房共は金剛を履きて田原ゑ落ち行く。清康君、吉田に一日の御逗留成されければ、吉田を打ち出させ給ひて、段々に備へを押し、田原ゑ押し寄せ給ひければ、戸田も降参を乞いければ、寛(ゆる)させ給ふ。田原に三日の御陣の取り給ひて、明けければ、又、吉田ゑ押し戻させ給ひて、吉田に十日、御逗留の内に、山家三方、作手、長間(ながしの)、段嶺(だみね)、野田、牛久保、設楽、西郷、二連木、伊奈、西之郡、何れも何れも降参を乞いければ、寛(ゆる)させ給ひて出仕する。明ければ、吉田を御立ち有りて岡崎ゑ着かせ給ふ。其れよりして、「安祥の三郎殿」と申し奉りて、諸国にて、人の沙汰するは、清康の御事なり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/33
『旧考余録』「葵御紋考」より「本多縫殿助家より奉りしと云事」
本多家譜云。膳所本多縫殿助正忠先祖、山城州賀茂社職也。依以立葵為家紋。
岡崎次郎三郎清康君、被攻吉田城主・牧野伝蔵、田原御出勢之節、正忠奉迎入伊奈城、進御酒。献御肴之節、池中之水葵葉盛之。次郎三郎君御覧之曰、「三立葵者、正忠之家紋也。今度之合戦、正忠最初参味方而後、為勝利、為吉例。依被為給」之旨仰差上之、御満悦而為御家紋云云。仍岡崎隨念寺御自讃御画像被絵立葵之紋于今存。『寛政重修諸家譜』の「牧野康成」から「第2次下地合戦」
永禄7年、東照宮、三河国吉田城外下地にをいて、今川氏真と御合戦の時、牧野の一族、今川に属して相たヽかふ。このとき、康成が家臣・城所ス助之丞某、本多忠勝と槍を合わせしに、忠勝が従士某、傍よりはしりしより、城所が手を一刀斬てさる。城所、肱(ひじ)に槍を挟むで猶たヽかはむとす。しかれども、相接することを得ず。この時、康成、城所が着せし桔梗笠、及び、かつぎをとりてみづからこれを着し(城所つねに赤き布にて作れる桔梗笠をかぶり、母よりをくりしかつぎを鎧の上に着て、戦場におもむきしといふ)、忠勝と力戦し、ともに創をかうぶりしかば、やがて槍をすてヽひきくんでこれをうたむとす。康成、このとき、御麾下にしたがふべきの志ありしかば、ひそかにそのことを忠勝につげて、たがひに引退く。
8年、父とヽもに、東照宮に属したてまつり、所々の御陣にしたがふ。
『牛久保密談記』から「金扇馬標」
一、家康公、吉田の城代・大原肥前守、御退治として、永禄八乙丑歳、御出馬なり。牧野右馬允、先陣を蒙りける。下地村聖眼寺御本陣なり。右馬允つくづく思ふやうは、「家康公の御手に属し、初めての軍なれば、一手柄なくては」とて、聖眼寺太子の御前にうづくまり、牧野家の馬印扇二本を太子の宮殿に籠めて、暫く観念あり、退出しけり。余人是を知らず、其後、住持、太子を拝せられけるに、件の扇、仏前に有り。「正しく、御身より分身、紛れ無し」と、家康公に言上有りければ、一本召し上げられ、残り一本は聖眼寺の什物と成る。(中略)其後、右馬允は、聖眼寺の尊像・太子、牛久保に安置し、聖眼寺末葉・養樹寺太子堂の本尊となせり。扨又、長谷寺の観音堂再興ましまし、武運山と名く。今は略して武山と号す。
(中略)
一、天正十八寅歳、小田原御陣に牧野半右衛門が馬印は、扇なり。家康公の御馬印も扇なれば、半右衛門遠慮する処に、下地聖眼寺太子にての事仰せ出され、同様苦しからざる旨御免を蒙り、牧野家の誉なり。
『三河国宝飯郡誌』「聖霊山聖眼寺」から「金扇馬標」
聖霊山聖眼寺 (中略)永禄七年吉田の城主・小原肥前守鎮実を攻め給はんとて、神君、当寺を陣営となし給ふ。則、聖徳太子の宮殿にして、天下泰平の事を祈り給ふ。或夜、御夢中に雙扇を感得し給ふの御奇瑞あり。夫より一扇を以て馬幟とし、牧野康成、先陣に進む。一扇は当寺に止めて霊法となさしめ給ふ。則、吉田城、程なく御手に入るこそ奇特なれ。馬標扇、延宝元年、将軍・家綱治世の砌、徳川家所蔵の扇と照合ありて由緒顕れ、年頭登城。白書院、時服拝領すと云。(後略)
以上で吉田城の攻略終了!
さて、次はどの城を攻めようかな。
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吉田城は、惣構の堀(今は全て埋没)を除き、元から空堀ですよ。水堀には見栄え以外にあまりメリットが無いため、江戸時代以来、空堀であったというお城は割と多いです。よろしければ調べてみてくださいね。