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夕陽丘に聖徳太子ゆかりの寺社を訪ねる
聖徳太子が創建したとされる寺院の代表は、やはり「法隆寺」だろう。
同寺の他にも、「中宮寺」「法起寺」「橘寺」などが知られるが、いずれも奈良県内の寺院だ。
一方で、奈良県に隣接する大阪にも太子創建として有名な「四天王寺」がある。同寺が建つ場所は、大阪市街の東に南北に連なる上町台地のほぼ中央の東側。台地の中でも最も高い場所で、かつては大阪湾に沈む美しい夕日が見られたことから、現在も夕陽丘の地名が残る。
この辺りは古来より西方浄土をのぞむ聖地とされており、「四天王寺」をはじめ太子創建とされる寺社の他にも、由緒ある神社仏閣が多い。
今回の歴史散策の行程は、「四天王寺」→「超願寺」→「四天王寺庚申堂」→「堀越神社」→「合邦辻閻魔堂(がっぽうがつじえんまどう)」→「大江神社」→「愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)」の順でめぐる。
各社寺は、ほぼ1km四方に点在するので、比較的ゆっくり見学しても2時間ほどの所要時間だ。
貴重な伽藍配置を現代に伝える四天王寺
起点となる四天王寺の最寄り駅は、大阪メトロ谷町線の四天王寺前夕陽ケ丘駅。4番出口を出ると、そこはもう「四天王寺」の参道・旧熊野街道だ。
ここには、昔ながらのお好み焼屋、喫茶店、本格的なそばや天ぷらのお店、気軽なイタリアン・フレンチまで多彩な飲食店が並ぶ。
そうした店舗の間には、長い伝統を受け継ぐ老舗や庶民的な生活品のお店もある。そんな新旧が混ざり合う、大阪の下町らしい雰囲気が色濃く残るのが、頼もしくもあり、嬉しくもある。
参道の一画・谷町通沿いに「金剛組」の社屋が建つ。
同社は、聖徳太子が招聘した宮大工・金剛重光が578年に創業した世界最古の企業で「四天王寺」とともにその歴史を刻んできた。幾多の変節を得ながら、現在も文化財の修理などを行う企業として存続していることが、何をおいても凄いの一言だ。
参道を冷かしながら、中之門を経て境内へ。広い境内には、中心伽藍(講堂・金堂・五重塔)の他にも、たくさんの堂宇や史跡が並ぶ。
今回は、四天王寺周辺の聖徳太子ゆかりの寺社めぐりだから、余り時間を割けない。しかし筆者は、大阪を訪れて思いがけず時間に余裕ができた時などは「四天王寺」で半日余りを過ごすことがある。
特に、弘法大師の月命日である21日の「お大師さん」と、聖徳太子の月命日である22日「太子忌(たいしき)」は縁日で、境内にはところ狭しと出店が並ぶ。その種類も骨董品、衣料品から野菜、果物などなんでもあれ。
既存の仏教諸宗派にこだわらない、昔から人々に親しまれる庶民信仰の寺院・四天王寺の懐の大きさを肌で感じられ、ついつい長居をしてしまうのだ。
話しがやや横道にそれてしまった。ここからは、四天王寺の歴史を紹介しよう。同寺は、593(推古天皇元)年に、聖徳太子が創建した日本最古の官寺とされる。法隆寺の創建は607年とされるから、それより14年も前のことになる。
定説によると、太子が蘇我馬子とともに廃仏派の物部氏と戦った時、戦況が膠着状態となった。
その時、白膠木の木を削り四天王像を造り、「この戦いに勝利できたら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓願され、戦勝後に難波荒陵の地に大伽藍を建立したのがはじまりという。
中心伽藍は、「四天王寺式」という伽藍配置が特徴で、中門・五重塔・金堂・講堂を一直線に並べ、回廊で囲む。
源流を中国・朝鮮半島に持つ、日本の寺院建築様式では最も古いものの一つとされる。
しかしながら、太平洋戦争の戦災で堂塔の大部分を失った。戦後、創建当初の様式で再建され、6~7世紀の大陸の貴重な様式を今日に伝えている。
境内には中心伽藍の他に、第18代天台座主・元三慈恵大師良源を祀る元三大師堂、境内中央に位置する雄大な堂で中心道場の六時礼讃堂、大阪七福神の札所で俗に「乳のおんばさんのお堂」と呼ばれる布袋堂などが建ち並ぶ。
また、日本三舞台の一つ石舞台、極楽の入口とされる石鳥居、本坊庭園など見どころも多い。石鳥居には、彼岸の中日に鳥居の真ん中に陽が落ちるという。その額の文字は「極楽東門」の中心の意だという。
見どころの多さだけでなく、居るだけでほっと安心できる「四天王寺」。まだまだ滞在したいが、後ろ髪を引かれる思いで南大門から出て、次の目的地「超願寺」へと向かう。
人形浄瑠璃・竹本義太夫の墓所がある超願寺
寺伝によると、614年に聖徳太子が創建したと伝わる寺院で、蘇我馬子の末子・慧観が住持し、後に「超願寺」と改めたとされる。
果たして馬子の子・慧観とはいかなる人物か。
日蓮上人が『本尊問答抄』で「推古天皇の御世に、慧観・観勒の二人の上人が百済国よりわたりて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭、禅宗をわたす。」と記しており、筆者の推測するところでは、この渡来僧と伝承が被っているのかも知れない。
歴史ファンの間で「超願寺」が著名なのは、墓地に人形浄瑠璃の黄金期を築いた「竹本義太夫の墓所」があることだ。
竹本義太夫は独特の音節をつけた義太夫節を考案。竹本座で上演し、近松門左衛門の脚本による「曽根崎心中」が、日本演劇史上を彩る空前の大ヒットとなった。義太夫の墓は堂の中にあり、しっかりと風雨から守られている。
北向きこんにゃくで知られる四天王寺庚申堂
「超願寺」から南門筋を100mほど南に行くと「四天王寺庚申堂」がある。同寺の創建は、聖徳太子没後約80年を経た701年で、太子創建の寺院ではないが、四天王寺との関係は深い。
寺伝によると、四天王寺の豪範僧都が疫病に苦しむ人々を救おうと、疫病退散を一心に祈ったところ、庚申の日に帝釈天の使いの童子が現れた。豪範は童子から青面金剛童子の像を授かり、これを祀るとたちまち疫病は治まったという。
それ以降、60日毎の庚申の日に、コンニャクを北に向いて食べると、ご利益があるという習わしが広まった。いまも庚申の縁日には境内に「北向きこんにゃく」などの出店が出て賑わう。
また「病に勝る」「魔も去る」という三猿堂の加持を受ければ、痛い所もたちまちに治るというご利益でも知られる。
そんな同寺の境内から南西方向を見上げると、高さ300mを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」が、聳え立っている。
筆者は四天王寺を訪れた際に、天気が良ければ「あべのハルカス」の展望台に登ることが多い。
1,800円の入場料がかかるものの、大阪市内の眺望は素晴らしい。特に、眼下に連なる上町台地の眺めは、大阪の地形が手に取るように分かるので、ぜひ訪ねることをおすすめしたい。
暗殺された崇峻天皇を祀る堀越神社
「堀越神社」は「四天王寺庚申堂」の西方約300m、谷町通を渡った茶臼山東麓に鎮座する。
社伝によると、聖徳太子が四天王寺建立の折り、叔父・崇峻天皇の得を偲んで社殿を造営したとされる。とすると、1,400年以上の歴史を有する古社ということなる。
祭神はもちろん第32代・崇峻天皇だ。天皇は、政治的な対立から蘇我馬子に暗殺された。太子はその生涯において、常に馬子サイドに立っていた。推古天皇の摂政としての政治も、馬子との協議のうえで行った。
「四天王寺」の近くに崇峻を祀ったのは、大王家を凌ぐ権力を有する蘇我氏に屈服せざるを得なかった、太子自身の悔恨の情の顕われであったのかも知れない。
同社は、明治の中頃まで境内南側に美しい堀があったため、それが社名となったという。大阪では「一生に一度の願いをかなえてくれる神様」として親しまれ「ひと夢祈願」の祈祷を受けに多くの人が訪れる。
頭痛封じのご利益がある合邦辻閻魔堂
「堀越神社」から谷町通を北へ、国道25号線を西へ歩むとおおよそ700mで「合邦辻閻魔堂」に到着する。
同寺は、聖徳太子の開基とされる閻魔堂で、明治に入り西方寺に移された。
本尊の閻魔大王は、頭痛平癒や咳や喉の痛みを和らげるなど、首から上の病気にご利益で信仰を集める。閻魔の頭を撫でてから自分の頭をさすり、次いで閻魔の胸から腹にかけて撫でおろし、自分の胸から腹も同様に撫でる。これを数回繰り返すと、頭痛が治るという習俗が現在も伝わる。そのご利益を求めて、全国から参拝に訪れる人が絶えない。
同寺は、太子が物部守屋と仏法について合論せられた四天王寺学校院の古跡とされる。また、歌舞伎や浄瑠璃『摂州合邦辻』では、主役の玉手御前が最期を遂げた場所として描かれている。
タイガースファンの聖地でもある大江神社
「大江神社」は「合邦辻閻魔堂」から松屋町筋を北へ約500mの場所に鎮座する。
同社は、天王寺七宮の一つで、四天王寺の鎮守として聖徳太子により祀られた。江戸時代は乾の社として毘沙門天を本尊としていたが、主祭神として五穀豊穣の祖神豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る。
また、太子の祖父・第29代欽明天皇も祭神とするのも興味深い。その欽明と蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれたのが、太子の父・用明天皇で、太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も、欽明と稲目の娘小姉君(おあねのきみ)の娘だ。夕陽丘の寺社は、太子と蘇我氏の関係の深さを物語っているようだ。
境内奥には、2003(平成15)年に氏子有志によって奉納された、狛犬ならぬ狛虎が置かれている。そもそも狛虎は、江戸時代に祀られていた毘沙門天の守護だったが、戦災で破損してしまった。
しかし、新たな狛虎が奉納されたこの年、阪神タイガースは快進撃を続け、18年振りの優勝を果たした。そして昨年も、同じくセリーグを18年ぶりに制した。ということは、阪神の次の優勝は2041年ということになるのだろうか。
何はともあれ「大江神社」が、タイガースファンの聖地と言われるのはこのためだ。
「大江神社」は、上町台地の西の崖上に位置する。それは、境内から西に向かって坂が伸びる地形からもよく理解できる。
古代においては、この愛染坂の下は海だったという。
では、お隣りの「愛染堂勝鬘院」に向かおう。
愛の仏・愛染明王を本尊とする愛染堂勝鬘院
「愛染堂勝鬘院」は、聖徳太子が「四天王寺」を建立した際の施薬院をはじまりとするという。
寺名は、太子がこの地で勝鬘経を講じたことに由来する。
その後、金堂に愛染明王が本尊として安置され、愛の仏として信仰され、縁結び・良縁成就などのご利益で親しまれている。
金堂北側に建つ多宝塔(国重文)は、太子創建と伝える。1597(慶長2)年に豊臣秀吉により再建された大阪市内最古の木造建築物でもある。本瓦葺上下二層の塔は、「四天王寺」の五重塔と比べると小振りに感じるが、優美さにおいては引けを取らない。
毎年、6月30日~7月2日に行われる「愛染まつり」は、天神祭・住吉祭と並んで大阪三代夏祭りの一つとして知られる。期間中は、浴衣姿の愛染娘のパレードが人気だが、秘仏本尊・愛染明王と大日大勝金剛尊の特別ご開帳が行われる。
本尊・愛染明王は、愛欲・欲望・執着といった煩悩を悟りに変えて、その境地にまで導いてくれる力を持つ仏様だ。
そのお姿は、諸々の悪者を追い返すために、全身燃えたぎるような赤色で、忿怒の形相をされている。しかし本当は、根は優しく、愛敬があり、人々に開運を授けてくださる仏様だという。
今年の夏は、そのご利益を受けに愛染まつりを訪れよう。そう誓いつつ、明王が安置されている金堂を礼拝し、夕陽丘の歴史散策を終えた。
※参考文献
高野晃彰編・大阪歴史文化研究会著『大阪歴史探訪ルートガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2015年12月
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