高島城とは
高島城は「長野県諏訪市高島1-20-1」にある連郭式平城で、1592年に織田信長・豊臣秀吉に仕えた美濃国出身の武将・日根野高吉が築城したと言われています。
もともと高島城は茶臼山にありました。
1582年に武田氏が滅亡後、1590年に入城した日根野高吉が現在の位置へと新たに築城したのが「諏訪の浮き城」とも呼ばれる現在の高島城です。
1626年には徳川家康の6男である松平忠輝(伊達政宗の娘婿)を預かることになり、南之丸が増設されました。
松平忠輝は、1614年の大坂冬の陣で留守居役を命じられましたがこれに不満があり、1615年の大坂夏の陣では出陣しましたがこれ以降目立った軍功はなく、同年には家康に対面を禁じられた人物です。
家康が死去した際にも、他の兄弟たちが今際の際に呼ばれる中で忠輝だけは呼ばれず、1616年には伊勢国の朝熊に流罪とされました。
1618年には飛騨高山の金森重頼に預けられましたが忠輝を持て余し、当時高島城主であった諏訪頼水に預けられることになりました。
「諏訪湖で泳いだ」という逸話も残っており、忠輝はそのまま高島城で亡くなりました。
南之丸があった場所は現在諏訪市武道館になっており、一角には松平忠輝公神社という小さな祠があります。
また、高島城は「日本三大湖城」の一つにも数えられ「続日本100名城」の一つでもあります。
この辺りは古くから温泉が湧いており、高島城は日本国内でも珍しい温泉が引かれていた城でもあります。城内にはそのための石枡などが残っています。
また、一度は城内から移され河西謙吉氏の庭に安置されていた「亀石」が、平成19年に再び高島城内へと戻りました。
石に水をかけるとカメが生きているように見え、願い事が叶うともいわれています。
石垣や堀、門などの遺構が残っていますが、1875年に天守など多くの建造物が移築・破却されたため、一時期は堀と石垣しか残っていないような状態でした。
天守はコンクリートの復興天守ではありますが、外観などは古い資料に基づきたてられたようです。中は資料館になっています。
今では諏訪湖が埋め立てられ、二の丸・三の丸は宅地として利用され本丸部分が公園として整備されています。
城内には諏訪護国神社が建立され、住宅街の中にあることから地元の人が散歩をしたり子供を遊ばせたりと、憩いの場になっています。
諏訪の浮き城
高島城は「諏訪の浮き城」という別名の通りに、当時は諏訪湖に張り出す形で城郭が作られていました。
築城当時、諏訪湖畔にあった高島村の人々には漁業権や賦役免除の特権を与えて立ち退きを要求しました。同時に茅野市の上原城周辺から商工業を営む人々を移住させ、城下町の建設も行われました。
この城は諏訪湖に突き出した水城で地盤が弱かったために、石垣の下には木材で筏状の土台が組まれ当時の最先端の技術が使用されていました。石垣が大変傷みやすく何度も補修工事が行われていたようです。
先にも書いたように、現在は諏訪湖が埋め立てられ住宅地などになっているために高島城から諏訪湖までは若干離れていますが、今ほど埋め立てられていないときには庭先から諏訪湖で釣りができる家もあったようです。
移築された建物も
高島城に残っている遺構としては、石垣や三の丸にあった三之丸御殿裏門が御川渡御門のあった場所に残っています。
かつてはこの場所から船で諏訪湖に出ることができたそうです。
上諏訪駅近くにある温泉寺には城の門が山門として移築され、本堂も高島城から移築された能舞台が使用されています。
能舞台の鏡板は本堂の中にありますのでお彼岸などの忙しい時期を避けていけばお寺の方にお願いして見せてもらうことができます。
また、温泉寺には諏訪高島藩主2代目以降の墓所もあります。
終わりに
今では諏訪湖が埋め立てられ、浮き城の趣は感じられなくなってしまいましたが、今でも石垣など遺構も残り諏訪では有名な観光地にもなっています。
現在住宅地となっている場所も歩いてみると、そこかしこに高島城の城内だったころの名残を見つけることができ新たな発見も多い場所です。
公園としても小さな子供が遊ぶ複合遊具もあり天気の良い日には地元の子供たちの元気な声が聴こえます。
高島城のある諏訪には温泉もあり、高島城主であった諏訪氏が大祝(おおほうり)を世襲した諏訪大社上社もあるので、一度訪れてみてはいかがでしょうか?
参考 :
西ヶ谷恭弘編「定本 日本城郭事典(秋田書店)」
諏訪観光HP諏訪高島城
この記事へのコメントはありません。