
画像:旧ペンシルベニア州道 61 号線から立ち上る煙 wiki c LaesaMajestas
人間は火を使えるようになって多くの物を得たが、それと同時に多くの物を失ってきた。
不幸な条件が重なれば、一度暴走し始めた炎は家を1軒2軒燃やすに留まらず、街や山を丸ごと呑みこんで焼き尽くしてしまうこともある。
アメリカ合衆国のペンシルバニア州コロンビア郡には、大規模な火災によってゴーストタウンと化した「セントラリア」という町がある。
セントラリアはかつては2700人以上の住民を抱える炭鉱で栄えた町だったが、1962年5月に起きた火災の影響で退去勧告が発令され、2017年時点では600㎡の面積の町に、わずか5名の住民のみが住むゴーストタウンとなってしまった。
セントラリアの火災は発生から60年以上経った今も、鎮火せず続いている。
どんなに大規模な火災だとしても大雨が降れば鎮火するのではないかと思うかもしれないが、炭鉱の町であったセントラリアの火災は地下で起きているため、そうやすやすと消えることはないのだ。
この坑内火災は、まだこれから250年以上燃え続ける可能性もあるという。
今回は、いつ鎮まるかもわからない火災が続く町「セントラリア」の歴史や現状に触れていく。
セントラリアの初期の歴史
セントラリアが炭鉱の町として発展し始めたのは、1800年代の頃のことだ。
セントラリアという名になる前、この地域はブルズヘッドと呼ばれていた。
1749年、コロンビア郡に居住していたネイティブアメリカンの部族が、現在のセントラリア一帯を含む土地を、植民地代理人におよそ500ポンドの金額で売却した。
その後、1770年に土地の調査が始まり、1793年には独立宣言署名者の1人であるロバート・モリスが、土地の3分の1を取得した。

画像:ロバート・モリス(独立宣言署名者) public domain
それから1798年にモリスが破産し、モリスが所有していた土地はアメリカ合衆国銀行に引き渡され、実業家のスティーブン・ジラードに3万ドルで購入された。
1832年になると、ジョナサン・ファウストという人物が、土地の一区画にブルズヘッド・タヴァーンという飲食店を開いた。
この店名にちなんで現在のセントラリア一帯は、ブルズヘッドと呼ばれるようになった。
1842年、かねてから無煙炭の存在を確認されていた土地を、ローカストマウンテン石炭鉄会社が購入した。鉱山技師のアレキサンダー・レアは町にセンターヴィルという名を付けたが、既に存在する地名であったためにセントラリアと改称された。
1854年には石炭輸送のためマインラン鉄道が建設され、1856年にはローカストラン鉱山とコールリッジ鉱山が開かれ、その後も続々と鉱山が開設され、セントラリアは炭鉱の町として栄えるようになっていったのだ。
炭鉱の町として発展するも、恐慌に翻弄されたセントラリア

画像:ペンシルバニア炭鉱のストライキについて話し合うために会合するモリー・マグワイアズのイラスト(1874・ハーパーズ・ウィークリー誌) public domain
1873年恐慌後、セントラリアは秘密結社「モリー・マグワイアズ」の活動の温床となり、暴動や殺人、放火が相次いで起きた。
しかし、モリー・マグワイアズの指導者の多くが処刑されたことによって沈静化し、町は発展し続けて最盛期で2761人の人口を抱えるまでに成長し、第一次世界大戦が勃発するまでに無煙炭の生産量はピークに達した。
1929年にウォール街大暴落が起きて、その影響を受けてセントラリアの炭鉱の5か所が閉鎖された。
休止炭鉱には密造炭鉱労働者が入り込み、炭鉱内に残る石炭柱から石炭を盗んでいったため多くの炭鉱が崩壊し、これがセントラリアの火災が広がる一因となってしまった。
1950年、セントラリア評議会はセントラリアの地下に眠る無煙炭の権利を取得した。
この年にはセントラリアの人口は減少しており、1986人の住民が暮らしていた。
坑内火災が発生する1962年頃には、ほとんどの鉱山会社が閉鎖されたが、1980年頃まで1000人余りの住民が生活を営んでいた。
坑内火災の状況と火災発生の原因

画像:州道61号線に立つ看板。「この地域に立ち入ると死亡または重傷の恐れがあります」と書かれている public domain
アメリカのノンフィクション作家デイビッド・デコックは、セントラリアの坑内火災の悲惨さをこのような言葉で表している。
This was a world where no human could live, hotter than the planet Mercury, its atmosphere as poisonous as Saturn’s. At the heart of the fire, temperatures easily exceeded 1,000 degrees Fahrenheit [540 degrees Celsius]. Lethal clouds of carbon monoxide and other gases swirled through the rock chambers.
(意訳) それは水星よりも熱く、土星と同じくらい有毒な大気を持つ、人間が住むことのできない世界だった。火災の中心では、温度は華氏1,000度(摂氏540度)を優に超えた。一酸化炭素やその他のガスの致死的な雲が岩の部屋を渦巻いていた。
出典:David Dekok (著)『Unseen Danger: A Tragedy of People, Government, and the Centralia Mine Fire』
セントラリアの火災は地下約900mあたり、周囲約13kmに渡り15k㎡の範囲で燃え続けている。
現在の速度で延焼が続くと仮定すれば、今後少なくとも250年以上は燃え続ける可能性があると考えられている。
セントラリアの坑内火災が始まった時期については諸説あるが、遅くとも1962年5月27日には火災の発生が確認されている。
火災の原因についてもいまだ議論が続いている。
有力なのは「集積所のゴミを焼却した際に地下鉱脈に火が燃え移り、火災が発生した」という説だ。
無煙炭がまだ多く残る地下鉱脈に、徐々に消し切れなかった火が燃え広がっていった。その結果、地表は70℃~80℃の熱を帯びるようになり、地下水が沸騰して有毒ガス、高濃度の一酸化炭素や二酸化炭素などとともに煙となって、地表に噴出するようになった。
地下水の量が減ったことにより地盤沈下が発生し、町は道路が割れ、地面が突然陥没して穴が開き、そこかしこから煙と水蒸気が噴き出すような危険な状況になった。
坑内火災の消火方法も検討し、実施されたがどれも失敗に終わり、最終的に連邦政府は莫大な費用がかかること、技術面の課題も多いことから消火を諦め、約38億円の予算を計上して、住民たちに退去勧告を出して立ち退き料を支払った。
現在、セントラリアの廃墟化した建物たちはそのほとんどが取り壊されているが、今でも5人の住民がこの地に住み続けているという。
2002年には郵便公社によってセントラリアの郵便番号が抹消された。
町に繋がる主要道路は封鎖され、市庁舎や教会は残されているものの、公共機関のほとんどが機能していない町となったが、それでも住み続けている住民がいるのである。
彼らは他所への移住が困難というわけでも、貧困層であるというわけでもなく「セントラリアを離れたくない」という強い意思によって、この地に住み続けているのだという。
火がもたらす恐怖

画像:1969年の掘削中に露出したセントラリア鉱山火災の一部 public domain
冒頭でも述べたが、火は私たちに多くの恵みを与えてくれる反面、命や生活のすべてを奪う破壊力を持っている。
その影響は炎による延焼だけでなく、大気汚染や地球温暖化の原因にもなっている。
セントラリアのような火災は日本の北海道夕張市でも起きており、北炭夕張炭鉱の神通坑で1913年に起きた火災もいまだに鎮火できておらず、1925年に閉鎖されて以降も100年以上に渡って炎がくすぶり続けているのだ。
オーストラリアのウィンジェン山は、通称「バーニング・マウンテン」と呼ばれ、地下の炭層が6000年以上に渡り燃え続けている。
夕張とウィンジェン山の火災は自然発火が原因であり、失火によるものではないが、セントラリアの地下火災は人の手によって引き起こされたものだ。小さな油断が、町1つを壊すほどの被害を生んでしまったのである。
遠くの土地で起きている地下火災が、私たちの生活にも少なからず影響を与え続けている。原因を自分が生み出してしまう可能性も含めて、火災は誰にとっても無関係な話ではない。
最近ではアメリカのロサンゼルスや日本の岩手でも、大規模な山火事が起きて大きな被害が出てしまった。
改めて火の取り扱いには十分な注意が必要であるという意識と、初期消火の重要さに対する意識を、人類皆が持つ必要があるだろう。
参考文献
『七つの巨大事故: 復興への長い道のり』ジェームズ・K. ミッチェル (著), 松崎 早苗 (監修), James K. Mitchell (原名), 平野 由紀子 (翻訳)
『絶対に行けない世界の非公開区域99 コンパクト版 ガザの地下トンネルから女王の寝室まで』ダニエル・スミス (著), 小野 智子 (翻訳), 片山 美佳子 (翻訳), ナショナル ジオグラフィック (編集)
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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