戦後初の女性国会議員の一人として、女性の権利向上に尽力した女性がいた。
彼女の名は加藤シヅエ。
17歳で10歳年上の男爵と結婚し、夫の赴任に伴って九州の炭鉱町へ移り住んだ彼女が目の当たりにしたのは、多くの子を抱え、過酷な労働に従事しながら日々を生きる女性たちの姿だった。
やがて渡米し、アメリカで産児制限運動を推進していたマーガレット・サンガーと出会ったシヅエは、その思想に共鳴し、日本の母と子のために運動を広める決意を固める。
今回はそんな加藤シヅエの足跡と、その情熱に迫る。
少女時代の憧れと、炭鉱で目にした過酷な現実

画像 : 17歳頃の加藤シヅエ 1914年撮影 public domain
明治30年(1897)3月、広田理太郎・敏子夫妻の長女として、東京・本郷に静枝(のちの加藤シヅエ)は生まれた。
父・理太郎は士族の出であり、英語力を武器に海外との貿易で成功を収めた実業家だった。裕福で進歩的な家庭に育ったシヅエは、6歳で華族女学校(後の女子学習院)初等科へ入学。周囲には華族や上流階級の子女が集い、西洋式の教養を受けて育った。
そんな少女時代、彼女が強く心を動かされたのは、叔父から語られた歴史上の人物たちの逸話だった。
なかでも、百年戦争のさなかフランス軍を率いて勝利に導いたジャンヌ・ダルクの話には、胸を熱くした。勇敢な少女が国を救ったという物語に、「世のため、人のために尽くす人生を送りたい」という思いを抱いたという。
しかし、当時の日本において女性の人生は、親が決めた結婚によって大きく左右されるのが常だった。
シヅエも例外ではなく、女子学習院を卒業した17歳の年、10歳年上の華族・石本恵吉男爵と結婚する。

画像 : 恵吉の父・石本新六 public domain
恵吉は陸軍中将・石本新六の子息でありながら、キリスト教的人道主義に傾倒し、財閥系の三井鉱山に勤めながらも労働者の境遇に強い関心を持っていた。彼は自ら志願して、福岡県の三井三池炭鉱への赴任を希望した。
新婚早々、シヅエも夫に同行して九州へと向かった。そしてこの地で、彼女は人生を変える現実と向き合うことになる。
坑内で働く女性たちは、男たちと同じように重労働に従事し、腰巻一枚の姿で石炭を運んでいた。
蒸し風呂のような高温の坑道で、12時間におよぶ過酷な作業に耐える日々。彼女たちはみな多くの子どもを抱えており、臨月でも休むことなく働き続け、時にはその場で出産することさえあった。
ようやく仕事を終えても、家では家事と育児が待ち構えている。子育ての喜びを味わう余裕などなく、生きるためだけに身体を酷使する毎日だった。
シヅエは、そうした女性たちの姿に言葉を失った。
人間らしい暮らしとは一体何なのか?この現実の中で、自分に何ができるのか‥‥その答えは、まだ見えていなかった。
勉強のため渡米、そして人生の師匠と出会う
「自立した女性になりたい」炭鉱での衝撃的な体験を経て、シヅエはそう強く願うようになっていた。
1919年、22歳のとき、彼女は2人の幼い息子を実家に預け、単身でアメリカへ渡った。すでに労働問題の研究のために渡米していた夫・石本恵吉も、彼女の決意を支持した。
ニューヨークでは、秘書養成学校バラード・スクールに通い、英語や実務を猛勉強する日々を送る。
その努力の傍ら、社会主義者や労働運動家、進歩的な知識人たちとの交流も始まった。
そしてシヅエは知人の女性ジャーナリストの紹介により、生涯の師とした産児制限運動家のマーガレット・サンガー女史と出会ったのだった。

画像 : マーガレット・サンガー public domain
彼女は後に「避妊、産児制限(birth control)」という言葉を造語し、現代の家族計画運動の先駆者とされる女性である。
当時、サンガーはニューヨークの貧困層を支える巡回看護師として活動しながら、貧困と多産に苦しむ女性たちを救うため、産児制限の必要性を訴えていた。イギリスで避妊法を学び、アメリカ初の避妊クリニックを開設。
政府による度重なる弾圧にも屈せず、女性の「産む・産まない」を選ぶ権利の確立を掲げて闘い続けていた。
シヅエは、サンガーの言葉に深く心を打たれた。
避妊は単に人口抑制ではなく、女性と子どもが人間らしく生きるための手段である――その思想に、自らが炭鉱で見た母親たちの姿が重なった。「この思想を日本に伝えなければならない」と、使命のようなものを感じたという。
帰国後、子育てと並行して秘書の仕事に就いたシヅエは、経済的にも自立への第一歩を踏み出していった。
やがて1922年(大正11年)、雑誌『改造』を発行していた改造社の「世界的な影響力を持つ著名人を日本へ招く」という企画により、サンガーが初来日することとなる。

画像 : 1922年に訪日したマーガレット・サンガーとともに public domain
しかし、この訪日は順風満帆とはいかなかった。
当時の日本は「産めよ殖やせよ」の国策のもと、産児制限を「国家の方針に反する危険思想」とみなしていたのだ。
サンガーの乗った船が横浜に到着しても、政府は入国ビザの発給を拒否し、上陸許可はなかなか下りなかった。
最終的には「産児制限」という言葉を一切口にしないという条件付きで、ようやく入国が許された。
シヅエはサンガーを赤坂の自宅に迎え入れ、支援者たちとともに講演の準備を進めた。
政府の圧力により公の場では「衛生講話」などと題した無難なテーマにすり替えられたが、婦人運動家や知識人を集めた内輪の集まりでは、サンガーの産児制限思想は歓迎され、共感と支援の輪が広がっていった。
女性たちの未来のために『産児制限相談所』の開設と試練
1922年、サンガーが帰国してからわずか2か月後、加藤シヅエは「産児調整研究会」を設立し、日本での産児制限運動を本格的に始動させた。
この運動は徐々に社会に浸透し、1931年には「日本産児調整連盟」を設立、彼女自身が会長に就任するまでに至った。
しかし、公の場での活躍とは裏腹に、私生活では暗雲が漂っていた。

画像 : 石本男爵夫人時代のシヅエ。1930年 public domain
夫・石本恵吉は渡米以降、家庭を顧みることが少なくなり、理想に燃えて活動を続けるシヅエの姿に冷ややかな態度を見せるようになっていた。
さらに、石本には多額の借金があったため、シヅエは家財を処分して返済しようとするも、「家門の名誉を汚す」として石本家から猛反対を受けた。
彼女はここで、華族という立場に縛られた旧来の家族制度の非情さを思い知ることとなる。
そんな中、叔父の勧めもあり、シヅエはアメリカ各地での講演旅行に乗り出した。高額の謝礼が見込めることに加え、自らの活動と理念を世界に広める好機でもあった。
講演では、日本の文化や女性の社会的地位、そして自身が取り組む産児制限運動について語り、各地で高い評価を得た。
1934年、37歳となったシヅエは再び渡米し、マーガレット・サンガーのクリニックで避妊の実地指導を受ける。
そして帰国後、東京都品川に日本初となる「産児制限相談所」を開設。
ここではサンガーのクリニックを模範とし、ペッサリーは一つひとつ丁寧に検品し、避妊薬ゼリーは処方どおりに調合・充填された。
地方の女性からの相談にも応じ、パンフレットや器具を送付するなど、きめ細かな支援体制を整えていた。
当時の日本では、避妊はもとより中絶すら「堕胎罪」として刑罰の対象とされており、命に危険があっても、貧困にあえいでいても、女性たちは産む以外の選択肢を持てなかった。
そんな現実を変えようとするシヅエの活動には、当然ながら激しい妨害や中傷がつきまとった。しかし彼女は一切屈せず、あくまで女性たちの味方であり続けた。
その存在に救われた多くの女性たちから、シヅエは深く感謝されたという。
翌年には、英語で自らの半生と日本社会の実情を綴った自叙伝をアメリカで出版。
日本人女性が自らの視点で社会問題を語る著書は当時ほとんどなく、特に日系移民の多い地域ではベストセラーとなった。
しかし、運動の波が広がる中で、時代は急速に戦時体制へと傾いていく。
昭和12年(1937)12月、共産主義思想の弾圧を目的とした「人民戦線事件」の一斉検挙が行われた際、シヅエも「危険思想の持ち主」として逮捕されてしまう。
アメリカでは「日本のサンガー夫人逮捕」として報じられ、これを知ったサンガー本人や支援者たちが即時釈放を求めて声を上げた。
その国際的な支援の声もあり、シヅエはほどなくして釈放されることとなる。
だが、この事件は大きな代償をもたらした。
加藤シヅエの「産児制限相談所」は、当局の監視と圧力により閉鎖を余儀なくされたのである。
戦後初の女性議員となり活動する
昭和19年(1944)3月、加藤シヅエは石本恵吉と正式に離婚した。
華族という立場にある夫との離婚は容易なことではなく、成立までに8年という歳月を要した。古い家制度のしがらみと闘いながら、ようやく自身の人生を自らの手に取り戻したのである。

画像 : 加藤勘十(1935年) public domain
その年の11月、彼女は同志であった労働運動家・加藤勘十と再婚し、翌昭和20年(1945)には48歳にして長女・多喜子を出産。
戦争末期の混乱の中で、シヅエはなおも新たな家族を育みながら、社会に対する情熱を失ってはいなかった。
戦後、日本が連合国軍の占領下に入ると、GHQ民間情報局の女性担当官エセル・ウィード中尉は、英語に堪能で女性問題に通じたシヅエに注目し、彼女を婦人政策の私的顧問に迎えた。
中尉から「日本の女性たちが最も望んでいるものは何か?」と問われたとき、シヅエは即座にこう答えたという。
「人間として認められることです。そして婦人参政権が必要です」
その言葉どおり、昭和21年(1946)に日本で初めて女性参政権が認められ、同年4月には戦後初の衆議院議員総選挙が実施された。

画像 : 1946年3月18日、社会運動団体「婦人民主クラブ」が結成された。 前列左から一人おいて、加藤シヅエ、厚木たか、宮本百合子、佐多稲子、櫛田ふき、羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子 public domain
加藤シヅエは日本社会党から立候補し、見事当選。39人の女性代議士のひとりとして、戦後日本の新しい政治の舞台に立つこととなった。
国会では、女性と子どもを守るための施策に尽力し、総合的な女性政策を担う「婦人少年局」の設置を推進。また、旧民法にあった「妻の無能力規定」の全面削除を実現し、戦前の家父長的家族制度の根幹を覆した。
さらに、刑法に残されていた「姦通罪」についても完全撤廃に導き、男女平等の理念を法制度の中に確かなものとして根付かせていった。
晩年、91歳を迎えたシヅエは、ある取材でこう語っている。
「私は、きょうの空気の中にいて、気持ちは初めてアメリカへ勉強に旅立った時と同じです」
学ぶこと、変えること、行動すること――その原点を彼女は最後まで忘れなかった。
そして平成13年(2001)12月22日、加藤シヅエは呼吸不全のため東京都内の病院で永眠した。享年104。
ひとりの女性として、母として、政治家として、そして運動家として、その情熱は生涯衰えることなく、世の中に確かな足跡を刻み続けた。
女性が人間として尊重される社会の実現に向けて、加藤シヅエの挑戦は、いまなお続いている。
参考 :
加藤シヅエ「愛は時代を越えて」婦人画報社
小杉みのり「時代をきりひらいた日本の女たち」岩崎書店
原野城治「「時代」を切り拓いた女性たち」花伝社
文 / 草の実堂編集部
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