
画像:アルバニア風衣装のバイロン(トマス・フィリップ画1935年) public domain
あの文豪ゲーテが「われわれの時代における最も偉大な天才」と称賛したと伝えられるイギリスの詩人、ジョージ・ゴードン・バイロン。
19世紀初頭、ロマン主義文学の旗手としてその名を不朽のものとした彼は、詩作だけでなく、その激しい生き様でも多くの人々を惹きつけました。
名声を得る一方で、数々の恋愛や奔放な言動、そして取り沙汰された近親との関係は、彼の評判を大きく左右し、やがて母国イギリスを去るまでに至ります。
今回は、天才詩人バイロンが辿った数奇な生涯をご紹介します。
天才詩人と異母姉

画像:バイロンの肖像画(トマス・フィリップ画1824年) public domain
ジョージ・ゴードン・バイロンは、1788年1月22日にロンドンで生まれました。
彼の父ジョン・バイロンは、名門バイロン家の一員でしたが、爵位を継ぐ立場にはなく奔放な生活を送っていました。
ギャンブルと女性関係に明け暮れ、莫大な借金を重ねた挙句、バイロンの母キャサリン・ゴードンの財産まで使い果たしたと言われています。
母キャサリンは名家の令嬢でしたが、夫の借金の肩代わりのために土地と爵位を売却する羽目になり、経済的にも精神的にも困窮を極めました。
父ジョン・バイロンは、キャサリンと結婚する以前に、アメリア・オズボーンという女性と結婚しており、その間に一人の娘をもうけていました。
彼女の名はオーガスタ・リーといい、バイロンにとっては異母姉にあたります。
バイロンが幼い頃に父が亡くなったこともあり、オーガスタと直接会う機会は長らくありませんでしたが、後年、バイロンの母が亡くなったことをきっかけに再会を果たしました。
ちょうどその頃、バイロンは長編詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の第1・第2巻を発表して文壇に名を轟かせ、社交界でも時代の寵児としてもてはやされていました。
しかし彼は、社交界の華やかな美女たちよりも、素朴で包容力のあるオーガスタに特別な安らぎを感じるようになっていきます。
血縁であるという関係も手伝い、二人は急速に親しくなっていきました。
真偽不明な禁断の感情

画像:異母姉・オーガスタの肖像画(ジェームズ・ホームズ画1817年) public domain
そうした中、バイロンは後に妻となるアナベラ・ミルバンクの伯母、メルボルーン夫人に宛てた手紙の中で、オーガスタとの深い関係を仄めかすような言葉を記したとされています。
その内容は、真意が図りかねるものではありましたが、夫人は強い拒絶の意を示し、「それはこの世において救いようのない罪です」といった厳しい言葉で返答したと伝えられています。
また、ある社交の場において、バイロンが「私の愛する女性がもうすぐ私の子を産むのです。生まれたら『メドラ』と名付けます」と語ったという逸話もあります。
実際、オーガスタがその後出産した娘には「メドラ」という名がつけられたことから、二人の関係についてはさまざまな憶測が飛び交いました。
悪夢の新婚生活

画像:妻・アナベラの肖像画(チャールズ・ヘイター画1812年) public domain
当然ながら、バイロンと異母姉オーガスタの関係が公然と肯定されることはありませんでした。
そしてバイロンは1815年1月、裕福な家庭に育ったアナベラ・ミルバンクと結婚します。
この結婚は、アナベラにとっては名誉ある縁談であり、バイロンにとっても経済的に都合の良い側面がありました。
しかし結婚生活が始まってすぐに、バイロンは理想としていた女性像と実際の妻との違いに気づきます。
バイロンは、ふっくらとした丸顔で穏やかに見えた新妻に対し、控えめで優しい性格を期待していました。
ところが実際のアナベラは数学的才能に秀でており、彼の発言ひとつひとつを分析し、論理的な推論をもとに議論を挑んでくるタイプの女性でした。
感情を重視し直観的に生きるバイロンとは対照的な性格であり、彼は内心で彼女を「平行四辺形の王女」と皮肉を込めて呼んでいたといいます。
常に観察され、批評されるような生活に直面したバイロンは、思い描いていた結婚生活とは程遠い現実に愕然とすることになったのです。
一方でアナベラにとっても、情緒が不安定で神経質なバイロンとの生活は負担の大きいものでした。
夜ごとに悪夢にうなされる彼は、枕元にピストルを置き、就寝時には舌を噛まないように口に布を挟んで眠ることもあったと伝えられています。
さらにバイロンは、アナベラの前でオーガスタとの関係を思わせるような発言を繰り返し、彼女の心を深く傷つけました。
そのうえ浪費癖のあったバイロンは次第に借金を重ね、ついには家財の差し押さえを狙う債権者たちが次々と訪れるようになります。
精神的にも追い詰められた彼は、やがて阿片に頼るようになり、薬が切れると凶暴な振る舞いを見せるようにもなりました。
文字通りの大転落

画像:『バイロンの死』(ジョセフ・デニス・オデヴェール画1826年) public domain
それでも二人の間には、1815年12月に娘エイダが誕生しました。
しかし出産から間もなく、アナベラはエイダを連れて実家に戻り、そのままバイロンのもとへは戻ってきませんでした。
代わりにバイロンの元には、心労でやつれ果てたアナベラを見て激怒した彼女の両親からの「もうお前の元には娘は返さない」という書状が届いたのです。
アナベラが正式に離婚を求めているという知らせは、瞬く間にロンドン社交界に広まりました。
両家の弁護士を交えた協議は難航し、異母姉オーガスタとの関係をめぐる噂も相まって、バイロンの評判は急速に悪化していきます。
かつては時代の寵児としてもてはやされた詩人は、やがて「道徳に反する人物」として非難の的となり、一方のアナベラは理知的で慎ましい女性として同情を集めるようになりました。
母国イギリスでの居場所を失ったバイロンは、1816年4月に別居同意書に署名したのち、わずか数日で国外へ旅立ちます。
以後、スイス、イタリア、そしてギリシャへと各地を転々としながら生活を送りました。
晩年、バイロンはギリシャ独立戦争に義勇兵として加わり、1824年、西部ギリシャの町メソロンギで熱病に倒れて36歳の若さで生涯を閉じました。
そのあまりに早すぎる死は人々に衝撃を与えるとともに、速筆で知られた彼が残した多くの作品は、今もなお多くの文学者や研究者によって語り継がれ、バイロンという詩人の深淵な人間性を物語るものとして、時を越えて語り継がれているのです。
参考文献:『世界禁断愛大全:「官能」と「耽美」と「倒錯」の愛』/桐生 操(著)
文 / 草の実堂編集部
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