おふう(於フウ)とは、三河国作手の国衆・奥平家の娘で、のちに上野小幡藩、さらに美濃加納藩の初代藩主となる奥平信昌(のぶまさ : 初名・貞昌)の最初の妻であった女性である。
本来であれば歴史に名を残すこともなかったはずの、地方の小豪族の妻にすぎなかった彼女の名が、なぜ今日まで語り継がれているのか。
それは、彼女が戦国の世でも稀にみるほど苛烈で、まさに戦国時代ならではの悲劇的な最期を遂げたからである。
今回は、徳川家と武田家という二大勢力の狭間で翻弄された奥平家の歩んだ道と、政略の犠牲となり、わずか16歳で処刑されたおふうの生涯をたどっていきたい。
三河の国衆・奥平貞友の長女として生まれたおふう

画像 : おふう イメージ 草の実堂作成(AI)
おふうの正確な生年はわかっていないが、三河の国人であった奥平貞友(さだとも)の長女として、おおよそ1558年頃に誕生したと推測されている。
おふうの父である奥平貞友は、現在の愛知県岡崎市桜形町にあった三河日近城の城主として、奥三河を本拠とした奥平本家に仕えていた人物だ。
貞友は1547年に今川義元の東三河進出に貢献し、その功を賞されて今川家に追放された形原松平家の所領を得たが、その翌年には今川家への謀反を企てたとして、形原を没収された。
その10年後の1557年、貞友は今川家に人質として預けられていた奥平本家の嫡男であり、貞友の従兄弟であった奥平定能(さだよし)とともに、反今川を掲げて挙兵する。(三河忩劇)
しかし定能の実父であり、貞友の伯父であった奥平家5代目当主の奥平貞勝(さだかつ)は、親今川派であった。
貞友ら反今川派は敗戦し、定能は高野山へと一時追放されることとなった。
貞友は今川義元の意向により、奥平家によって処刑されるはずであったが、逃亡して抵抗を続けた。
そして翌年の1558年に定能が赦免され、貞友の処遇も曖昧なまま、騒乱は一応の終息をみた。
おふうが生まれたのは、まさにこの奥平家が今川家との対立と服属を繰り返した激動のさなかであり、こうした国人衆による大規模な反乱「三河忩劇(みかわそうげき)」の終盤にあたる時期であった。
家名存続のために次々と主君を変えた奥平家

画像 : 奥平唐団扇 Mukai CC BY-SA 3.0
戦国時代当時の奥平家は、三河の小豪族の1つに過ぎなかった。
当時、奥平家を率いた5代目当主・奥平貞勝は、時には一族内で対立しながらも、時勢を見極めて巧みに主君を変え続けた。
その臨機応変さが、家名を後世まで存続させる結果につながったともいえる。
貞勝は当初、徳川家康の祖父である松平清康に仕えていたが、松平家弱体化後に今川家に転属した。
「三河忩劇」の収束後は、三河国の大部分を今川家が支配することとなり、三河国作手を本拠とした奥平家は今川家に従属した。
1556年には、台頭しつつあった織田家に内応して離反を試みる。しかし計画は露見し、今川家に再属している。
そして1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、奥平家は今川派として家康と敵対したものの、ほどなくして家康の傘下に加わる。

画像 : 6代目当主 奥平定能(さだよし)像(大蔵寺蔵) public domain
しかし1571年、三河へ侵攻してきた武田家の圧力を受け、奥平家中では、6代目当主となった定能(さだよし)が家康への忠義を重んじる一方で、名目上は隠居していた貞勝らは慎重姿勢を取っており、意見が対立した。
最終的には貞勝の意向が優勢となり、奥平家は武田方に服属することとなった。
このとき、武田方への人質のひとりとして差し出されたのが、定能の長男・信昌(のぶまさ)の妻であったおふうだった。
元亀元年(1570年)、数え13歳となったおふうは、信昌の弟・仙千代丸(10歳)、奥平周防守勝次の子・虎之介(13歳)とともに、甲斐の武田家へ送られることとなった。
奥平家の武田家離反

画像:歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』三方ヶ原の戦いの3枚揃錦絵 public domain
この頃、徳川家と武田家は、遠江の領有をめぐり、常に緊張関係にあった。
1572年12月の三方ヶ原の戦いでは、奥平定能と菅沼氏の二家(田峯城主・菅沼定忠、長篠城主・菅沼正貞)が武田家に属し、山県昌景の与力として従軍した。
この三家は強い結びつきを持ち、奥三河の山間部に拠点を置いていたことから、「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれていた。
1573年初頭、武田軍は三河国宝飯郡の徳川方・野田城を攻略したが、なぜか城を落とした直後に撤退した。
この異様な行動に疑念を抱いた定能は、やがて秘されていた信玄の死を察知する。
家康と密かに通じながらも、表向きは武田方に従う姿勢を装い続けた。
その後、家康は武田家の勢力を抑えるため、奥平家を再び味方に引き戻そうと使者を送った。
しかし、この時点ではおふうら人質三人の身柄が武田方にあり、加えて信玄の死も秘され、情勢が不透明だったため、当主・定能の返答は煮え切らないものだった。
しかし1573年5月、山家三方衆の長篠城主・菅沼正貞が、家康軍の包囲を受けると、援軍を待たずして早々に開城してしまった。
この降伏をめぐり、菅沼正貞に家康との内通疑惑が浮上し、同じ山家三方衆であった奥平家もまた、家康と通じているのではないかと武田方から疑われることとなった。
奥平家は幸い露見は免れたものの、武田家中における立場は急速に悪化していく。
そこで家康は、この状況を打開するため、織田信長に相談をもちかけた。

画像:京都府大法院蔵 紙本着色徳川亀姫像 public domain
信長は「家康の長女・亀姫を、奥平定能の長男・貞昌(のちの信昌)に嫁がせよ」と進言し、家康はこれを受け入れた。
こうして定能は徳川家への帰参を決意し、1573年6月22日には家康に対し、武田信玄の死が確実であること、そして奥平家が徳川方へ帰参する意向を正式に伝えた。
婚約とともに、領地の安堵と新恩三千貫を保証する「七ヶ条の誓書」も交わされた。(※文書には「元亀四年八月二十日」とあるが、実際には天正元年であり、偽文書説もある)
このとき信昌は、武田方に人質として差し出されていた妻・おふうと離縁し、家康の長女・亀姫を正室に迎え、徳川家の家臣となった。
しかし、おふうをはじめとする人質たちの身の安全は、もはや誰にも保証できない状態になってしまったのである。
見せしめとして晒し首にされたおふう

画像:「於フウ処刑の地」の碑(愛知県新城市玖老勢地造入) wiki c ORA817
奥平家の徳川方への離反を知った武田勝頼は激怒し、人質の処刑を命じた。
天正元年9月21日(1573年10月16日)、13歳で人質として差し出され、わずか16歳で「裏切り者の元妻」という立場になったおふうは、愛知県新城市玖老勢地造入にある「コオリ坂」で処刑された。
主導したのは武田家重臣・山県昌景で、見せしめのため、おふうの亡骸は磔にされたと伝わる。

画像 : 刑を受けるおふう イメージ 草の実堂作成(AI)
同じく人質となっていた信昌の弟・仙千代丸、奥平周防守勝次の子・虎之介も、同日に別々の場所で処刑されている。
仙千代丸は、鋸引刑に処されたという説もある。
おふうら三人の首は、鳳来寺山麓にさらされた。
その後、孫たちのあまりに無残な姿に心を痛めた祖母・貞子姫が、密かに首を奪い返し、故郷・日近城下の広祥院に葬ったという。
おふうや弟たちの死後、大出世した信昌

画像 : 長篠城を死守した奥平信昌 publicdomain
その後の天正3年(1575年)、織田・徳川の連合軍と、武田軍が激突した「長篠の戦い」が勃発する。
定能から家督を継いだ7代目当主・奥平信昌は、わずか五百の兵で長篠城を守備し、家臣・鳥居強右衛門の決死の伝令によって織田・徳川連合軍の援軍を呼び寄せ、武田勝頼率いる一万五千の大軍を退けた。
長篠城を守り抜いた信昌と奥平一族の奮戦は、信長と家康の双方から高く称賛されることとなる。
この戦功により、信昌は信長から「信」の一字を与えられ、このときに名を貞昌から信昌と改めた。
また家康からは名刀・大般若長光を授かり、奥平家の領地は安堵され、さらに加増も受けるなど格別の待遇を得た。
家康はまた、自らの幼少期に人質として過ごした経験から、奥平家が徳川方に帰参するために犠牲となったおふうを深く憐み、おふうの妹である「たつ」を、自身の異母弟である松平定勝の正室として迎え入れている。
おふうたちの命を代償として徳川家臣となった奥平家は、やがて将軍家の親戚筋に列する大名家へと成長し、明治維新後は華族の伯爵家としてその名を連ねた。
信昌は正室として迎えた亀姫との間に4男1女をなし、その子供たちは家康の外孫として厚遇され、夭折した1人を除いて分家を「徳川家御連枝」として興すことを許された。

画像:日近城(広祥院)にある於ふうの墓 wiki c ORA817
しかし、奥平家の華々しい出世の陰で、おふうの命は無残に奪われた。
その首を納めた墓は、祖母・貞子姫や義弟・仙千代丸の墓と並び、愛知県岡崎市日近城跡に隣接する広祥院の境内に、ひっそりと佇んでいる。
参考 :
鳳来町立長篠城趾史跡保存館(編)『戦国 人質物語』
榎本秋 (著)『江と戦国の姫君たち 女性の目から見た「もうひとつの戦国史」』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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