幕末明治

江戸を無血開城した勝海舟「本当はバリバリの抗戦派だった?」

文武両道の英才であった勝海舟

画像:勝海舟 public domain

山岡鉄舟・高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる勝海舟

しかし、彼は幼い頃、非常に貧しい家に育ったと伝えられている。

その原因は、何といっても父・勝小吉の奔放な行状にあった。

小吉は、関ヶ原以前から徳川家に仕える旗本の養子でありながら、吉原遊びが大好きで、女にモテようと着飾る一方、喧嘩っ早い性格の持ち主だった。

幕臣でありながら職に就かず、腕っぷしと剣の腕を頼みに道場破りをして回り、「不良旗本」として恐れられたという。

幼少期から問題ばかり起こしていたが、13歳のとき江戸を出奔し、上方をさまよっていた。
その際、崖から転落して片方の睾丸を損傷してしまった。

ちなみに海舟自身も9歳のとき、野良犬に襲われて陰嚢を噛み切られ、睾丸が露出する瀕死の重傷を負っている。

笑い事ではないが、親子そろって同じ個所に怪我を負っているのは奇妙な因縁である。

そんな小吉に育てられながらも、海舟は学問と剣術に非凡な才能を発揮した。

蘭学は、赤坂溜池の福岡藩邸に住む永井青崖に学んだ。このとき、蘭学医から借りたオランダ語辞典『ドゥーフ・ハルマ』を2冊にわたり書き写している。

1冊は自分用、もう1冊は売って生活費に充てるためであった。

画像 : 佐久間象山 wiki c

この辞典は全58巻に及ぶ大著であり、海舟は1年をかけてすべてを書き写した。
その結果、オランダ語を自由に操れるまでになった。

さらに佐久間象山の知遇を得て西洋兵学を修め、象山の勧めにより田町で蘭学と兵法の私塾を開いたのである。

海舟といえば、蘭学や海軍のイメージが強いが、実は剣術の達人でもあった。

父・小吉の実家筋にあたる従兄の男谷信友が開いていた道場で、若き日の海舟は腕を磨いている。
信友は「幕末の剣聖」と称された直心影流(じきしんかげりゅう)の大家であった。

海舟は浅草の道場から王子権現まで、往復およそ16キロを稽古の後に雨の日も雪の日も走り抜け、さらに王子権現で打ち込みまで行うという苛烈な鍛錬を重ねた。

こうした荒稽古の積み重ねによって腕はめきめき上達し、21歳にして早くも免許皆伝を許されている。

将軍家茂のもとで海軍創設に奔走

画像:咸臨丸(1860年頃)public domain

1860年(万延元年)、海舟は「軍艦操練所教授方頭取」として咸臨丸に乗り込み、江戸湾からサンフランシスコへの横断に成功した。

往路の航海こそアメリカ海軍の支援を受けたが、復路は日本人だけの手で帰国を果たした。

その後は幕府重臣として第14代将軍・徳川家茂の信任を受け、幕府海軍の創設に奔走する。
しかし、家茂は長州征伐の途上、大阪で病に倒れ、若くして世を去ってしまう。

海舟自身もこの間、一時的に役職を解かれ蟄居を命じられるが、その大阪滞在中に薩摩の西郷隆盛と初めて会見している。

新政府軍を壊滅させる2つの案を提言

画像:鳥羽・伏見の戦いの後、大坂から脱出する徳川慶喜を描いた錦絵。月岡芳年 wiki.c public domain

徳川家茂に心底惚れ込み、「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」とまで日記に記した海舟は、15代将軍となった徳川慶喜からの出仕要請を渋々承諾した。

しかし、大政奉還後の1868年(明治元年)正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、大坂城から慶喜が逃げ帰ってくるという切迫した状況に至り、歴史は海舟をその表舞台へと押し上げた。

幕府最後の陸軍総裁に就任すると、同年1月23日、海舟は慶喜に対し二者択一の案を突き付けたのである。

「この勝が艦隊を率いて駿河の海岸に兵を上陸させ、官兵を阻止します。そして、艦砲射撃をもって官兵を殲滅する。その上で、艦隊を大坂湾に乗り入れ、西国・中国の海路を閉鎖すれば、敵には最早打つ手はなくなる。我が軍の力量をもってすれば勝算は十分です。しかし、それ以降は終わりの見えない戦乱になることは間違いない。もし、上様がおやりになれとおっしゃるなら、我らは一死をかけてやりますぜ。お覚悟のほどは、いかがか。」『勝海舟上書』

海舟の半ば脅迫ともとれる提案は、決してハッタリではなかった。

鳥羽・伏見で敗れたとはいえ、江戸には最新の後装銃を装備した伝習隊の主力が温存されており、なによりアジア最強といわれた巡洋艦・開陽丸を旗艦とする、旧幕府海軍が無傷の状態で残っていたからである。

しかし、慶喜はこの海舟の案を否決した。

そのうえで、2月21日、幕臣一同に不戦を徹底する旨の沙汰書を下したのである。

画像 : 西郷隆盛 public domain

そうしているうちに、新政府軍は刻々と江戸に迫り、3月15日の江戸への総攻撃が決定した。

海舟と西郷隆盛の会談・世にいう「江戸開城談判」が行われたのは、この直前の13日・14日だった。

通説では、この会談で西郷が海舟の男気に惚れて、「よし、明日の総攻撃は中止だ!」となり、江戸は戦火から救われたというが、実はそれは真実ではない。

この結果は、既に決まっていたことで、海舟と西郷の会談はその最終確認であったのだ。
前交渉として、海舟の意をくんだ山岡鉄舟が西郷に会い、江戸城開城の交渉はほぼ済んでいた。

ただ、海舟は万が一、交渉が完全決裂した際に、江戸市民を千葉へ脱出させたうえで、新政府軍を江戸市中に誘い込み、火を放ってゲリラ戦を仕掛け、殲滅させる焦土作戦を準備していた。

画像:結城素明画『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館所蔵)public domain

用意周到な海舟は、新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼。
江戸市民の避難のため、江戸周辺の船をすべて調達し、避難民の食料も確保した。

また、旧幕府海軍の諸艦は新政府軍の兵糧と退路を絶つため、艦砲射撃の準備を整え、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる、という計画であったという。

海舟と西郷による「江戸開城談判」は、旧幕府の壮絶な覚悟を示すものであった。

海舟はこの会談から約30年後、ブランデーをあおりながら「これでおしまい」と言い残し、その人生の幕を閉じた。

※参考文献
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史』宝島社刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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