長きにわたった戦国の世を終わらせた立役者といえば、織田信長と豊臣秀吉の二人である。
20万石ほどの尾張の戦国大名を継いだ信長は、やがて畿内を中心に800万石を超える大勢力へと拡大した。
だが、本能寺の変で志半ばに倒れると、その後を秀吉が継いだ。
秀吉は柴田勝家らライバルを次々と下し、ついに天下統一を成し遂げる。
数々の逸話を残した二人だが、その共通点は「派手好き」「エンタメ好き」であった。
今回は、信長の逸話をご紹介しよう。
武芸であった相撲をエンタメに仕上げた

画像 : 織田信長 public domain
若かりし頃、「大うつけ」と呼ばれていた織田信長は、奇抜な風体と独特のファッションセンスで知られていた。
紅色や萌葱色(もえぎいろ)の糸で髪を結った茶筅髷(ちゃせんまげ)、わざと片袖を脱いだ着物、さらに腰には朱色の大刀をさし、火打袋や瓢箪(ひょうたん)をぶら下げていたという。
その姿のまま餅や果物、菓子をかじりつつ、小姓たちを従えて歩き、時には彼らによりかかるようにして城下を闊歩していた。
もっとも、父・信秀の死後に家督を継いでからは、さすがにそうした風体は改めたようだ。
しかし、遠乗りや狩り、水泳を好むといったアクティブな気質は変わらなかったらしい。
ただし、このような信長の行動は、多くが武芸や体力の保持といった合戦への備えに通じていたという。

画像 : 両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」public domain
なかでも「相撲好き」はよく知られており、自らもしばしば家臣に交じって取ったと伝えられている。
当時は重い甲冑を着けての戦いが主流であり、最後は組討で勝敗が決することも多かった。
ゆえに相撲は実戦に直結する武芸であり、大いに役立ったに違いない。
しかし、信長の特筆すべき点は、その相撲を単なる鍛錬にとどめず、エンタメに仕立て上げたことである。
『信長公記』によれば、信長は少なくとも十数回にわたり相撲大会を催したという。
1578年(天正6年)8月には、1500人もの力士を安土城下に集め、朝8時から夕方6時まで上覧相撲を行ったと記録されている。
どれほど相撲を愛していたかがうかがえよう。
さらに、優秀な力士には家臣に取り立てたり、褒美を与えたりするなど、武芸の奨励策としても活用していた。
おそらく大会当日は、信長の家臣団だけでなく、多くの城下町の人々も見物に訪れ、大変な賑わいであっただろう。
それは、エンタメ好きな信長が主宰した、まさに「相撲大会」という名を借りた一大祭りであったに違いない。
政治的拠点の安土城をライトアップ
このほか、信長のエンタメ好きを物語る逸話はいくつも残っているが、普通の戦国大名では考えられないようなイベントも開催しているので、ここで紹介しよう。

画像:安土城図 public domain
その一つが、信長政権にとって最重要軍事基地であり、政治的拠点でもあった安土城の「ライトアップ」である。
1581年(天正9年)7月、安土に滞在していた宣教師が帰国するにあたり、その送別のために催された。
安土城下の町家などの火や灯りをすべて消させた上で、提灯の明かりで安土城を浮かび上がらせたという。
琵琶湖の水面に映るその光景は幻想的で美しく、多くの見物人が集まり、光のショーを楽しんだと伝えられている。
さらに、翌1582年(天正10年)正月には、正月の挨拶に安土を訪れる人々に向けて「大名・小名を問わず、御礼銭百文ずつ、自身で持参せよ」という通達を出した。
人々が安土城に登城すると、信長自身が待ち構えており、直接見物料を受け取ったという。
人々が豪華絢爛な安土城内を見て驚き、喜ぶ様子を目にして、信長は大いに満足したとされる。
普段は人々に恐れられた信長も、このような催しを開くときは実に機嫌が良かったという。
若かりし頃の信長は、庶民であろうと気さくに声をかけて親しんでいた。
天下人となってからもその根底にある心情は変わらず、こうした姿勢によって民心の掌握に務めていたのかもしれない。
※参考文献
鈴木良一著 『織田信長』 岩波新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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