中国史

「琉球は中国のもの」は本当か?日本と中国の”琉球王国”歴史認識の違い

近年、台湾海峡の緊張が高まっています。

高市首相が「台湾有事は日本の存立危機事態にあたりうる」と発言したことで、日中関係は一段と緊迫した状況を迎えています。

もし台湾有事が起きた場合、最も影響を受けるのは沖縄かもしれません。

台湾本島と沖縄本島の距離は約600キロで、東京から大阪よりも少し遠いくらいの距離です。

沖縄には在日米軍専用施設の約7割が集中しており、作戦の前線基地になる可能性が高いとされています。

中国のSNSでは、高市首相の発言に反発する動きが目立っています。

「琉球有事は中国有事である」「沖縄はかつて中国の琉球王国だった」といった主張が急速に広がっています。

こうした言説の背景には、琉球と沖縄をめぐる複雑な歴史があります。

今回は、その歴史をたどりながら、琉球王国の成り立ちを振り返っていきます。

琉球王国の成立 〜東アジア貿易の要衝

画像:琉球を統一した尚巴志(イメージ図 AI)

琉球王国は、1429年に成立しました。

尚巴志(しょうはし)という人物が沖縄本島の三つの勢力を統一し、首里城を拠点とする王国を築いたのです。

琉球は小さな島国でしたが、地理的な位置が大きな強みになりました。
中国、日本、朝鮮、東南アジアを結ぶ海上交易の中継地点として、琉球は繁栄していきます。

当時の東アジアには、明を中心とする国際秩序がありました。

周辺国は明の皇帝に朝貢し、皇帝から「王」として認められる冊封を受けたのです。
琉球も1372年から明に朝貢を始め、正式に冊封国となりました。

形式上は主従関係に基づいた儀礼ですが、その実態は国家間の公的な貿易活動でした。
この朝貢貿易で、琉球は莫大な利益を得ていました。

冊封関係は形式上の従属を意味しましたが、内政への干渉はほとんどありません。
琉球は独自の法律を持ち、独自の外交を展開し、独自の文化を育てていったのです。

明の「属国」ではあっても「領土」ではない、という区別は重要です。

「琉球は中国のものだった」という論理は、冊封関係と領土主権を混同したものと言えるでしょう。

薩摩侵攻と「二重の従属」

画像:琉球王国は、薩摩藩と中国から二重統治を受けていた(イメージ図 AI)

琉球王国の独立は、1609年に大きく揺らぎます。

薩摩藩が約3000人の兵を送り、琉球を武力で制圧したのです。

首里城は占領され、国王・尚寧(しょうねい)は捕虜として薩摩に連行されました。

画像 : 尚寧王の御後絵 向元瑚画 1796年 public domain

ここから琉球は薩摩藩の支配下に入ります。

しかし薩摩藩は琉球王国を滅ぼさず、形式上は独立国として存続させ、中国への朝貢も続けさせたのです。

その理由は経済的な利益です。

当時、日本は明との正式な貿易関係を持っていませんでした。
琉球を通じて中国の産品を手に入れることが、薩摩藩にとって大きな収入源だったのです。

こうして琉球は中国に対しては朝貢国として振る舞い、日本に対しては薩摩藩の従属国として振る舞うという「二重の従属」状態に入りました。

表向きは独立国でありながら、実質的には両国の影響下にあるという曖昧な状況が約270年間続きます。

この「二重の従属」において、中国側の議論は往々にして冊封関係のみを強調し、薩摩による支配の側面を軽視する傾向があります。

明治の琉球処分 〜王国の終焉

画像:琉球処分のとき、首里城門に前に立つ日本政府軍 public domain

明治維新後、日本政府は琉球との曖昧な関係を解消しようとしました。

1872年、政府は琉球王国を「琉球藩」に改め、国王・尚泰(しょうたい)を藩王に任命します。
これは、琉球を日本の一部として明確に位置づける第一歩でした。

1879年、政府はさらに踏み込みます。

軍隊と警察官を琉球に派遣し、琉球藩の廃止と「沖縄県」の設置を宣言したのです。
尚泰は東京への移住を命じられ、首里城は明け渡されました。

約450年続いた琉球王国は、ここに終わりを迎えました。

これが「琉球処分」と呼ばれる出来事です。

当時の清は、この処分に強く抗議しました。

琉球は清の朝貢国であり、日本が一方的に併合するのは不当だ、という主張です。
清は米国の元大統領グラントに調停を依頼するなど、国際的な働きかけも試みました。

しかし、当時の清は内憂外患を抱えており、実力を行使して現状を覆す力は残っていませんでした。
結局のところ琉球処分は既成事実として定着し、国際的にも日本領として認められていきます。

現在においても中国側は、この琉球処分を「不当な併合」の根拠としています。

しかし当時の国際法においても、清が琉球に対して「領土主権を持っていた」とは認められていません。

冊封関係はあくまでも主従関係を示すものであって、領土の帰属を決める法的根拠ではないのです。

前線基地としての沖縄 〜日清戦争から沖縄戦へ

画像:避難した子ども(沖縄戦)。多くの民間人が犠牲になった悲劇を二度と繰り返してはならない。 public domain

1894年、日清戦争が勃発します。

翌年に日本は勝利し、下関条約で台湾と澎湖諸島を獲得しました。

これにより沖縄と台湾の関係は、新たな段階に入ります。
沖縄は台湾統治の後方基地として、また南洋への中継地点として軍事的な重要性を増していきました。

こうした戦略的位置付けによって生まれた悲劇が、太平洋戦争末期の沖縄戦です。
1945年3月から6月にかけて、米軍は沖縄本島に上陸し、激しい地上戦が展開されました。

日本軍は本土決戦の時間稼ぎのために持久戦を選び、戦闘は長期化します。

日本軍約9万人、米軍約1万2千人が戦死し、沖縄の民間人も約9万4千人が犠牲になりました。
県民の4人に1人が命を落とすという、壊滅的な被害です。

戦後、沖縄は日本本土から切り離され、米軍の統治下に置かれました。
1972年に日本に復帰しましたが、広大な米軍基地は残されたままです。

このように沖縄は日清戦争以降、繰り返し「前線」に置かれてきました。

台湾統治の後方基地、本土決戦の防波堤、冷戦期の対中・対ソ最前線など、時代ごとに役割は変わったとしても、大国によるパワーゲームの最前線に立たされる構造は変わっていないのです。

参考文献:赤嶺守(2004)『琉球王国 − 東アジアのコーナーストーン』講談社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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村上俊樹

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