とかく世の中はせっかちで、すぐに結論を求める方が少なくありません。
会話術の書籍などでも「まずは結論を言え」「5・10・15秒にまとめて話せ」などと、ひたすら速さを重視しているようです。
もちろんダラダラ話すのはよくありませんが、何の裏付けもなく脊髄反射で結論だけ提示しても、説得力に欠けるのではないでしょうか。
今回は『名将言行録』より、徳川家臣として活躍した板倉勝重(いたくら かつしげ)のエピソードを紹介したいと思います。
※『名将言行録』は江戸時代以降に編集された逸話集で、史実としての信憑性は高くありません。本稿ではそこに示された精神性・教訓的価値に重きを置き、参考事例として採用しております。
板倉勝重とは

画像 : 板倉勝重像(長圓寺蔵) public domain
板倉勝重は、天文14年(1545年)に生まれ、寛永元年(1624年)4月29日に80歳で亡くなりました。
板倉好重の次男として誕生し、幼少期に出家していましたが、父と家督を継いだ弟が戦死したため、徳川家康の命により天正9年(1581年)に還俗して家督を継ぎます。
その後、要職を歴任し、朝廷や寺社、公家の統制や民政に携わり、後世には「名奉行」として知られる人物となりました。
早く答えた方が優秀?

画像:板倉重宗 Public Domain
ある時、第2代将軍・徳川秀忠が、板倉勝重の子である重宗(しげむね)、重昌(しげまさ)兄弟に、裁判に関する問題を出したと伝えられています。
弟の重昌はその場で即座に答えましたが、兄の重宗は「慎重に検討したいので、後日書面にて回答いたします」と述べ、後日改めて書面で回答を提出しました。
しかし書面を見ると、先日、重昌が即答した内容と同じだったのです。
同じ結論であれば、できるだけ早く知りたいと思うのが自然です。
そのため秀忠は「弟の重昌の方が優れているのではないか」と述べましたが、勝重はここで異議を申し立てました。
「畏れながら、この場合は重宗の方が優れていると言えるでしょう」
そう答える勝重に、秀忠はその理由を尋ねました。
勝重は、次のように述べたと伝えられています。
「この程度の問題であれば、重宗もその場で即答できたでしょう。しかし裁判とは、当事者の人生を大きく左右する重大なものです。判決に誤りや不公平があってはなりません。そのため、まず思い浮かんだ答えが果たして本当に適切なのか、慎重かつ多角的に検討した上でなければ、軽々に答えるべきではないと愚考いたします」
たとえ同じ結論に至ったとしても、じっくりと考えた上で、解釈に間違いの生じにくい書面で判決を回答した重宗の方が優れている。勝重はそう答えたのでした。
いつの時代も、裁判の当事者は人生がかかっているため、原告・被告どちらも必死です。
現代でいえば、仮にもしその判決をAIが一瞬で下したとしたら、いくら法的に正しかったとしてもなかなか納得できないのではないでしょうか。
裁判はただ白黒をつければいいというものではありません。双方の主張や証拠を総合的に吟味し、なるべく禍根を残さず社会秩序の維持に資するよう努めるのが司法の役割です。
もちろん「今回のケースは、あくまでただのクイズなんだから、パッと答えて正誤を問えばそれでいい」という考え方もあるでしょう。
しかし重宗は、単なるクイズと軽く考えず「もし本当にこういう裁判に臨んだら、自分はどうすべきか」と真剣に考える、高いプロ意識があったと言えます。
こうした経緯から、勝重は「重宗の方が優れている」と答えたのでした。
首吊り自殺の遺体から真相を推理

画像 : 板倉勝重の冷静な推理(イメージ)
そんな勝重が江戸町奉行を務めていた時、火災現場で首吊り自殺がありました。
奉行所の役人たちは「恐らく生活苦で自宅に火を放ち、それから首を吊って死んだのだろう」と判断しましたが、勝重は遺体の異変に気づきます。
「この遺体は自殺ではなく、自殺を偽装した他殺である」
その理由は、以下の通りです。
一、遺体の首に刻まれた縄目に、血が寄っていない。首を吊って死んだ者の遺体は、必ず縄目に血が寄るものである。だからこの遺体は、死んでから首に縄をかけられた(他殺されてから首吊り自殺を偽装した)に違いない。
一、遺体の鼻を調べたところ、鼻の中にまったく灰が入っていない。つまり火が放たれた時点で、遺体の主はまったく呼吸をしていなかった(死んでいたか殺されていた)ことが分かる。
「つまり、この者はまず殺害され、その後首吊り自殺に見せかけて、自宅に火を放たれたのでしょう」
自殺の偽装と放火の順序には異説もありますが、いずれにせよ犯人が逃走の余裕を確保するための計画的犯行と考えるのが自然です。
こうして単なる自殺として処理されかけていた事件は、殺人と放火の疑いとして再調査されることになったのです。
終わりに
今回は、慎重さと冷静さを兼ね備え、的確な判断力で事件を解決してきた板倉勝重のエピソードを一部紹介してきました。
勝重は他にも、駿府町奉行・小田原代官・京都所司代などの要職を歴任。
『徳川実紀』によれば勝重の判決を受けた者は、たとえ敗訴となっても自身の罪を恥じたと言います。
日頃からよほど相手に寄り添い、納得できるよう心を砕いていたのでしょう。
とかく何でも結論を急ぎ、効率ばかりが優先されがちな世の中で、勝重のような存在は実に貴重と言えます。
勝重には及ばないまでも、少しは慎重熟慮を心がけ、公正無私な態度を実践できるようになりたいものです。
※参考文献:
・笠谷和比古 監修『武士道 サムライ精神の言葉』青春出版社、2008年8月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
























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