秀次・秀勝・秀秋・秀勝・秀家・秀康。
こうして名前を並べてみると、「なぜ、秀の字ばかりなのか」「しかも、秀勝が二人もいるではないか」と、思わず首をかしげたくなりますよね。
もうお気づきの方も多いかもしれませんが、実は彼らは全員、豊臣秀吉の養子、あるいは養子に準ずる立場で迎えられた人物たちです。
なぜ秀吉は、これほど多くの養子を必要としたのか。
そこには、天下人・秀吉ならではの後継構想と、豊臣政権を支えるための周到な人事戦略がありました。
今回は秀吉の養子政策と、その中から秀吉が実際に後継者として強く意識していた織田信長四男の羽柴秀勝と、姉・智の子、豊臣秀次に焦点を当てていきます。
体制維持や家の存続のために多数の養子を迎える

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
なかなか実子に恵まれなかったことで知られている豊臣秀吉。
秀吉の実子としてよく知られているのは、鶴松と秀頼の2人です。
この二人はいずれも、浅井長政とお市の方の長女・茶々、すなわち淀殿との間に生まれた男子でした。
また、確かな史料に基づくものではありませんが、秀吉が長浜城主時代、側室との間に秀勝(石松丸)と名付けられた男子が誕生していたという説もあります。
これを含めれば、秀吉には3人の男子がいた可能性があることになります。
しかし、秀勝(石松丸)と鶴松はいずれも夭折してしまい、成人に達したのは秀頼ただ一人でした。
さらに、淀殿との間に鶴松が誕生した時、秀吉はすでに53歳であり、当時としては人生の終盤に差し掛かっていたといえるでしょう。
秀吉が北条氏政・氏直父子を滅ぼし、天下統一を成し遂げたのは、鶴松誕生の翌年である1590年(天正18年)のことです。それまでの間、跡継ぎとなる男子が存在しない状況が続いていました。
そうした事情もあり、秀吉は将来の体制維持や家の存続を見据え、大勢の養子や猶子(ゆうし/名字を変えず、家督や財産の相続を目的としない擬似的な親子関係)を迎えていたのです。
血縁・縁戚・大名など多岐にわたった12名の養子

画像 : 小早川秀秋 public domain
秀吉には、判明しているだけでも男子7人・女子5人、合計12人の養子・猶子がいたとされています。
7人の男子のうち3人は、秀吉と血縁、あるいは親戚関係にある人物でした。
それが、姉・智と三好良房との間に生まれた秀次・秀勝(小吉)、そして正室・北政所(おね)の甥にあたる秀秋(後の小早川秀秋)です。
ただし、秀次と秀勝については、当時の史料では秀吉との関係を「甥」と表現しているものもあり、正式な養子ではなく一門衆とみる見解も存在します。
一方、別の3人は、大名や有力武将の子を養子として迎えたケースです。
具体的には、織田信長の四男・秀勝(於次丸)、宇喜多直家の長男・秀家、徳川家康の二男・秀康が挙げられます。
さらに、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第一皇子・誠仁親王(さねひとしんのう)の皇子である、八条宮智仁親王(はちじょうのみや・としひとしんのう)も、秀吉の養子となっています。
後継者とされたゆえに悲劇に見舞われた秀勝と秀次

画像:豊臣秀次像(部分)瑞雲寺所蔵 public domain
これらの養子の中で、秀吉が実際に後継者として強く意識していた人物は、織田信長の四男・秀勝(於次丸)と、姉・智の子である秀次の2人であったと考えられます。
秀勝(於次丸)は長浜城主時代、石松丸秀勝を失った秀吉が、主家である織田家との結びつきを強化するため、信長に願い出て養子として迎え、羽柴家の跡継ぎとした人物でした。
本能寺の変で信長が横死すると、於次丸秀勝は信長の四男という立場から、山崎の戦いにおいて神戸信孝(信長三男)とともに合戦の旗印とされます。
さらに、大徳寺で執り行われた信長の葬儀においては喪主を務め、養父の秀吉が信長の後継者である立場を内外に強く印象づけました。
於次丸秀勝は、羽柴秀勝として丹波亀山城主となり、正三位・権中納言にまで昇進しますが、1585年(天正13年)、病によりわずか18歳で死去します。
結果論ではありますが、その短い生涯は、秀吉の立身出世のために利用された一面があったといっても過言ではないでしょう。
そして秀勝の病没後、秀吉の後継者という立場を一身に背負うことになり、極めて悲劇的な最期を迎えた人物が秀次でした。
秀勝没後の翌年、近江八幡城主であった秀次は、秀吉から豊臣姓を与えられ、豊臣秀次を名乗ります。
1591年(天正19年)、豊臣秀長と鶴松が相次いで死去すると、秀次は秀吉から関白職を譲られ、二代目武家関白として正式に後継者の地位に就きました。
しかし、そのわずか4年後、秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放されたうえで切腹を命じられます。
さらに、与力として秀次を支えた大名たちも粛清され、秀次の妻妾や子女あわせて30余名が処刑されるという、徹底した一族滅亡の憂き目にあいました。

画像:豊臣秀次とその妻子たちを供養する瑞泉寺(撮影:高野晃彰)
秀次排除の最大の背景には、1593年(文禄2年)に秀吉の実子・秀頼が誕生したことがありました。
すなわち、秀頼を溺愛する秀吉が、天下人の座を実子に継がせようと考えた結果、秀次は邪魔な存在となったのです。
そこで秀吉は、秀次の命を奪うとともに、その一派の勢力が台頭する可能性を徹底的に断ち切りました。
この「秀次事件」は、秀吉の生涯において行われた数ある苛烈な政策の中でも、とりわけ陰惨な出来事として後世に強い印象を残しています。

画像 : 豊臣秀頼 public domain
今回は、秀吉が後継者として強く意識していた二人の養子に絞って考察してきました。
しかし秀吉のもとには、ほかにも多くの養子や猶子がおり、彼らもまたそれぞれに波瀾に富んだ人生を歩んでいます。
それらについては、あらためて別稿で取り上げていく予定です。
どうぞ、今後の考察にもご期待ください。
※参考文献
黒田基樹著『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部






















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