江戸時代

流産や死産はすべて母親のせい? 江戸時代の妊婦に課せられた過酷なルールとは?

江戸時代の出産と聞くと、現代よりも自然任せでおおらかな営みだったと想像するかもしれません。

しかし実際は現代の感覚に比べて、女性たちは驚くほど厳しい制限のもとで暮らしていました。

今回は、江戸時代に広まった医学書や社会制度を手がかりに、当時の妊婦たちが置かれていた状況を見ていきたいと思います。

男女で目的が違った「養生(健康)」ブーム

江戸時代には「養生(健康の維持や増進)」という考え方が広まりましたが、この健康ブームは男女で方向性が異なっていました。

男性向けの養生書が病気予防や長寿を目的としていたのに対し、女性向けの書物は妊娠と出産を中心に書かれていました。

その背景には中国医学の影響に加え、家系を絶やさないことを重視する儒教の価値観がありました。当時の社会において女性のもっとも重要な役割は夫に従い、跡継ぎとなる子どもを産むことだと考えられていたのです。

その価値観のもとで養生書も書かれており、女性の健康管理は出産するための手段という位置付けだったと考えられています。

胎児のために感情も娯楽も制限された

画像:『婦人寿草』を執筆した香月牛山 public domain

医学と道徳が結び付いた結果、妊婦には厳しい生活上の制約が課せられました。

当時の人々は「母親の感情や行動が胎児にそのまま影響を及ぼす」と信じていたからです。

たとえば江戸前期から中期にかけて活躍した医師・香月牛山が著した代表的な産科養生書『婦人寿草』(元禄期成立、1692年刊本が確認される)には、妊娠中の心得として「胎教」の考え方が詳しく記されています。

妊婦は常に正しい姿勢を保ち、好ましくない光景を見ず、みだらな音楽を聴かないよう求められました。

また「妊婦は火事の際に外に出て火を見てはならない。心気を驚かせて胎児に影響がある」といった記述もあり、精神を刺激する行為は広く禁じられていました。

さらに妊娠後期の夜の営みは胎児に悪影響を与えるとされ、出産が近づくと妻を実家に帰す風習もありました。

こうした制約は胎児の健康を守るという名目のもとで行われていましたが、実態としては儒教的な道徳観に基づく、女性の行動管理という側面が強かったと考えられています。

出産の悲劇は母親の責任とされた

画像:江戸時代の女性は厳しい管理下に置かれていた ※イメージ

こうしたルールのもとで、出産にまつわる悲劇の責任はすべて母親に向けられました。

本来ならば出産は本人の力だけではどうにもならない営みです。それにもかかわらず、なぜ母親だけが責められたのでしょうか。

難産や流産が起きると、母親が養生の教えに背いた結果だとみなされたのです。
流産の原因として、香月牛山は妊婦の怒りや嫉妬を挙げています。つまり感情を抑えきれなかった母親自身に非があるという論理です。

養生書の中には難産の原因を母親の不摂生に帰す記述もあり、転倒のような不慮の事故であっても、母親の不注意として非難されることがありました。

我が子を失った悲しみのうえに、周囲からは「自分が悪い」と責められる重圧が加わり、当時の妊婦たちは医学的な根拠が乏しい道徳的なルールによって、精神的にも追い詰められていたのです。

幕府の監視が母親へのプレッシャーを強めた

画像:徳川綱吉による「生類憐れみの令」によって、妊娠・出産を監視する制度が整えられた public domain

母親への責任追及がここまで強まった背景には、幕府や各藩による出産の監視体制がありました。

江戸時代中期以降になると全国的に人口が停滞し、「間引き(生まれたばかりの乳児を殺すこと)」が深刻な社会問題として認識されるようになりました。

この問題に対処するため、幕府や各藩は出産を管理する政策を段階的に導入していきます。

管理政策の起源は五代将軍徳川綱吉の時代にさかのぼり、1680年代から出された一連の生類憐れみの政策のもとで、1696年には江戸において妊婦と三歳以下の子どもを登録する制度が始まりました。

この仕組みはもともと捨て子対策として設けられたものです。

やがて18世紀後半以降、人口減少に悩む各藩が管理政策を発展させ、妊娠・出産を監視する制度を整えていきました。

たとえば津山藩(現在の岡山県)では1781年に赤子間引取締が定められ、出産をめぐる統制が制度として整えられました。仙台藩でも1807年(文化4)に赤子養育仕法が施行され、妊娠や出産の届け出が義務づけられます。

流産や死産が起きた場合には、堕胎や間引きではないことを示す報告と確認が求められました。
隣人や親類の証言が集められることもあり、妊娠と出産は個人の問題ではなく地域の監視下に置かれたのです。

こうしてお上(権力)の目が光るなかで、母親に対する自己責任論はさらに強まったと考えられます。

江戸時代の妊婦たちは医学の名を借りた道徳的な縛りと、藩による監視という重圧のなかで、命がけの出産に臨んでいたのです。

参考文献
沢山美果子『出産と身体の近世』勁草書房、1998年
Susan L. Burns「The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Tokugawa Japan」2002年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
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