江戸時代

『あまりに残酷』江戸幕府の容赦なき大名取り潰し 〜忠臣の子孫も改易・領地没収

江戸幕府の大名統制法であった『武家諸法度』

画像 : 徳川秀忠 public domain

学校で江戸時代の政治史を学ぶ際、必修事項としてまず挙げられるのが『武家諸法度』であろう。

同法は1615年(元和元年)、第2代将軍・徳川秀忠の命によって発布されたが、その成立過程には、なお大御所として権勢を振るっていた徳川家康の意向が色濃く反映されている。

『武家諸法度』は大名を統制するための基本法であり、いわば江戸幕府の最高法規ともいうべき存在であった。

そして、将軍の代替わりに応じて、時代状況に即した改訂が重ねられていく。

なかでも、第3代将軍・家光の時代に参勤交代の制度化や大船建造の禁止を盛り込んだ「寛永令」、また第5代将軍・綱吉の時代に殉死の禁止や末期養子の緩和などを定めた「天和令」は、特によく知られている。

このように『武家諸法度』には多くの規定が設けられていたが、大名たちが最も恐れたのは「取り潰し」、すなわち「大名改易」に直結する条項であった。

では、同法のどのような禁止事項に抵触すると、改易という厳罰が科せられたのだろうか。

具体例を挙げれば、武家諸法度では

「自国の者以外を家臣として雇ってはならない」
「居城を修理する場合でも必ず幕府に届け出ること。新たに城を築くことは厳しく禁じる」
「大名同士の婚姻を、幕府の許可なく勝手に行ってはならない」

など、大名の軍事力や人間関係を直接制限する規定が定められていた。

これには些細なことでも、幕府の言うことを聞かない大名は、理由の大小を問わず容赦なく取り潰すという強い意思が込められていたのである。

改易にあった大名の多くは「無嗣絶家」による処分だった

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託) public domain

関ヶ原の戦後処分としての改易とは別に、大坂の陣後、江戸幕府は大名統制政策の一環として改易を積極的に行った。

世嗣断絶や幕法違反を理由とする取潰しは、初代家康から3代家光に至る初期3代の治世に集中し、慶安4年(1651年)までに約130家が改易されたとされる。

なかでも家光の時代には、外様26家、一門・譜代17家が改易されている。

その中でも、特に多かったのが、跡継ぎを定めぬまま当主が死去する、いわゆる「無嗣絶家(むしぜっか)」であったといわれている。

もっとも、多くの大名は側室を置き、兄弟が複数いる家も少なくなかった。
それでも、嫡男に恵まれないまま当主が没する例は少なからずあった。

こうした大名家では、当主が若ければ若いほど、いずれ男子が誕生するであろうとの期待から、跡継ぎの決定を先送りにする傾向が見られたようだ。

しかし、突然当主が危篤に陥り、慌てて養子を定めようとする末期養子は、当時の幕府の方針として原則認められていなかった。

そのため、結果として改易に追い込まれる大名が少なくなかったのである。

関ヶ原の折り、家康のために伏見城で玉砕した鳥居元忠

画像:鳥居元忠 public domain

「無嗣絶家」に該当した大名は、情け容赦なく領地を没収された。

それは、どれほど徳川家のために尽くした家であっても例外ではなかった。

その代表例が、鳥居元忠の子孫たちである。

元忠は、家康が幼少期から仕えた側近であり、最も信頼された重臣の一人であった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際し、元忠は会津の上杉景勝討伐へ向かう家康本隊とは行動を別にし、伏見城に1,800の兵を率いて籠城する。

しかし、家康が東軍諸大名を率いて西国を離れた隙を突き、石田三成率いる西軍が伏見城を攻めることは、避けられない情勢であった。

すなわち、元忠に課せられた役目は単なる留守居ではなく、西軍を相手に最後の一兵まで戦い抜く玉砕戦を意味していた。

実際、西軍はその予想通りに動き、およそ2週間に及ぶ攻防戦の末、鳥居勢は壊滅し、元忠もまた討ち死にした。

関ヶ原の戦い後、伏見城に残された血染めの畳は、元忠の忠義を顕彰するため、家康の命によって江戸城伏見櫓の階上に据えられ、大名たちの頭上に掲げられたという。

また、その床板は京都の養源院や源光庵などに寄進され、鳥居勢諸将の供養として「血天井」となり、現在に至るまで伝えられている。

鳥居元忠の子孫も『武家諸法度』により領地を没収された

画像:井伊直孝 public domain

鳥居元忠の嫡男・忠政は、父の功績もあって磐城平藩10万石を与えられ、後には山形藩22万石を領する大名へと昇進した。

これは譜代大名としては、きわめて異例の高石高であった。

しかし、そのような鳥居家でさえ、1636年(寛永13年)、忠政の子・忠恒の代に至って『武家諸法度』が厳格に適用され、改易の処分を受けることとなる。

その理由は、いうまでもなく「無嗣絶家」であった。

徳川家にとって重恩ある鳥居家の処遇をめぐっては、幕閣内部でもさまざまな議論が交わされたであろう。

しかし最終的に、当時大政参与であった井伊直孝は、「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」、すなわち、後継者の件すら願い出ないことは、武家諸法度に背き、将軍を軽んじるに等しいと、厳しく指弾した。

さらに直孝は、「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」と述べ、このような者を処罰しなければ、今後、不義不忠の大名が現れた際、何をもって戒めとするのか、と断じたのである。

結局、大久保彦左衛門をして「三河武士の鑑」とまで讃えられた鳥居元忠の家であっても、例外を認められることなく、所領没収の処分に付されたのだ。

このように、『武家諸法度』の方針に沿って、幕府は初期段階で集中的に改易を進めていった。

それにともない、諸国には主家を失った浪人があふれ、それが内乱未遂事件や治安の悪化などの社会不安に繋がっていくのであった。

※参考
『武家諸法度 元和令・寛永令』
井沢元彦著『学校では教えてくれない江戸・幕末史の授業』他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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