昭和60年(1985)5月、都内の精神科病院に入院中だった50代女性患者が自ら命を絶った。
その女性患者は、体は痩せ細り歯はほとんどなく、実年齢よりはるかに上の老女のように見えた。
実はその女性患者は、東宝第一期のニューフェイスとして戦後の映画界にデビューし、一躍人気スターとなった女優・若山セツ子だった。
今回は純情可憐型女優だった彼女に何があったのか、その生涯をみていきたい。
映画界デビューと電撃結婚

画像 : 若山セツ子 public domain
昭和4年(1929)6月、若山セツ子(本名・坂爪セツ子)は、東京の中目黒で生まれた。
セツ子の父親は銭湯を開いていて、セツ子が小学5年生の頃には東京浴場組合の役員を務めるようになった。父親は積極的に行動するタイプであり、母親似のセツコは控えめで何事も黙って耐え忍ぶタイプだった。
小学校を出て実践高等女学校へ進学、卒業したセツ子は、次姉・テイ子のすすめで新聞に載っていた東宝の第一期ニューフェイス募集に応募し、約4千人の応募者の中から最終の48人の1人に選ばれて合格した。
そして昭和22年(1947)、セツ子はオムニバス映画『四つの恋の物語』第3話で映画デビューし、いきなり主要な役を務めた。
続いて谷口千吉監督の『銀嶺の果て』に出演し、『おスミの持参金』では毎日映画コンクール新人演技賞を受賞。
昭和24年(1949)には『青い山脈』で丸眼鏡をかけたお茶目な女学生を演じ、主演を上回る人気を得た。
高い演技力を持ち熱心だった彼女は、将来有望な女優として注目された。
純情可憐型女優としてさらなる活躍を期待されたが、セツ子は昭和24年10月、突然、監督であり離婚歴のある谷口千吉と電撃結婚して、映画界と世間を驚かせる。

画像 : 谷口千吉 public domain
2人は映画『銀嶺の果て』で知り合い、この時、谷口が36歳でセツ子は20歳だった。
この結婚について、セツ子の周りの人たちはもう少し慎重に考えるよう忠告したが、若く生真面目なセツ子は「谷口先生には自分が必要だ。私は先生の奥さんになる」という想いだけを胸にしていた。
結婚後、セツ子は小学校時代の親友に夫となった谷口を紹介している。
親友から見たこの時の彼女は、実に幸せそうだったという。
離婚し、東宝との契約終了…芸能界から姿を消す

画像 : 左端が若山セツ子(1951年)public domain
しかし、それからおよそ6年半後の昭和31年(1956)、セツ子と谷口は離婚した。
理由は性格の不一致、互いに多忙だったためと報道されたが、本当の理由は谷口の浮気で、若くてまっすぐなセツ子にとって谷口の裏切りは許せなかったのだ。
離婚後、セツ子は渋谷へ移り住んだ。
離婚をする前年には父親がこの世を去っていて、セツ子は母親のことを結婚した次姉・テイ子にみてもらうため、調布市に家を買い、そこにテイ子一家と母親を住まわせた。
セツ子は結婚してから良い作品に出る機会が少なくなっていたが、これからは仕事一筋で女優業に専念しようと思っていた。
しかし、彼女の意に反して良い仕事は来ず、さらに元夫・谷口は再々婚をしてメディアに大きく報じられた。
そして昭和35年(1960)、セツ子は東宝との専属契約が終わり、翌昭和36年(1961)頃を最後に芸能界から姿を消した。
この少し前から、セツ子の親友はセツ子に対して異常を感じるようになっていたという。
セツ子と親友が2人で会話をしていると、急にセツ子は「私の横に誰かがいて2人の会話を聞いている」と言ったり、話をしているセツ子の視線が親友のはるか後ろの方へ向いていたりした。
その後セツ子は、次姉・テイ子一家と母親が住む調布市の家の2階に身を寄せ、やがて近くの一軒家を借りて母親と2人で暮らすようになった。
しかしこの頃からますます様子がおかしくなり、精神神経科の病院へ短期入院した。
退院後、セツ子は母親とともに調布市内の長姉・千代野一家のもとで暮らしていた。そんな中、昭和46年(1971)3月頃、女性週刊誌が『元女優・若山セツ子を捜せ!』という特集記事を掲載した。
その記事を見たプロダクション織井事務所の織井美行は、セツ子を芸能界に復帰させようと考え、彼女のもとを訪れて熱心に呼びかけた。そしてセツ子は芸能界に復帰することとなる。
セツ子は復帰を大変喜んでいたという。
セツ子の悲しい最期

画像 : 『薔薇合戦』(1950年)。若山セツ子と鶴田浩二 public domain
しかし、セツ子が芸能界復帰を果たして1年経った頃、彼女の様子は再びおかしくなり始めた。
その頃、セツ子は京都でテレビドラマの撮影をしていたが、スタッフに呼びかけられても黙って考え込んでいたり、出演者やスタッフから1人離れてどこか遠くを見つめていたりなど、奇行が目立つようになった。
それでもセツ子は撮影を続けていたが、次第に1人で呪文のようなものを唱えたり、知らない人に笑いかけたり、さらには深夜の街の中を裸で歩いていたという目撃情報まで出た。
スタッフたちの手に負えなくなったセツ子は、半ば強制的に茨城の精神神経科の病院へ入院させられ、1ヶ月後に1度退院するも、その後もう1度入院した。
それでも演技に熱心だったセツ子は、病院の演芸会のために同室の人たちに演技の指導をしながら自身も練習していたという。
昭和53年(1978)頃からセツ子は次姉・テイ子一家が住んでいる家の2階に母親と一緒に住むようになった。
しかしその後、階下に住んでいた次姉・テイ子が病気のためこの世を去り、さらに昭和59年(1984)には母親もこの世を去った。
テイ子の夫は仕事で単身赴任中だったため、調布市の家の2階にはセツ子、階下には日中働いている甥が住み、セツ子の身の回りのことは近所の女性がみるようになった。
しかし姉と母親を失った大きなショックからか、セツ子はさらにおかしくなっていった。
気分の良い日は近所の人に丁寧に挨拶をするなど、おかしなところはないように思えたが、幻覚や妄想のある日は深夜に遠くまで響き渡る声で歌を歌ったり、女学校時代の友人の家に裸足で突然現れたり、時代劇のセリフ口調で親友に電話をかけたりした。
ついにはタバコの火の不始末によるボヤ騒ぎを起こし、セツ子は巡回保健師の説得で調布市の病院へ入院することになる。
そして入院してから1ヶ月後の昭和60年(1985)5月9日、セツ子は病室内で首を吊っている状態で発見された。
この時55歳だった彼女は、骨と皮がくっつきそうなくらいに痩せていて、歯はほとんどなかったという。
その姿は実年齢よりはるかに上の老女のように見えたため、セツ子の検視にあたった警部補はカルテの生年月日に間違いはないか看護師に確認したほどだった。
それは、かつてスクリーンで輝いた若山セツ子の、あまりにも痛ましく孤独な最期だった。
参考 :
早瀬圭一「過ぎし愛のとき」文藝春秋 1993 他
文 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。