神話、伝説

『おとなしいはずの草食動物が怪物に』人を襲った牛・鹿・馬の怪異伝承

画像 : 筋肉の躍動 pixabay cc0

草食動物は草を主に食べているのに、なぜあれほど大きな体や筋肉を維持できるのか、不思議に思ったことがある人も多いだろう。

その仕組みを支えているのが、発達した消化器官と体内の微生物である。
草に含まれる繊維は、そのままでは利用しにくいが体内で分解されることで栄養へと変わっていく。草食動物は、そうして得た栄養をもとに体を作っているのである。

また、草食動物は絶対に草しか口にしないわけではない。
ごく稀にではあるが、死肉や小動物を口にしたり、鳥の巣を襲ったりする例も報告されている。

神話や伝承の世界においては、そうした異様さがさらに誇張され、人間を喰らう怪物として語られることもあった。

今回は、そんなおぞましい「人食い草食動物」たちの伝承を見ていきたい。

牛のケース

画像 : テセウスとミノタウロス public domain

神話の世界において、牛はもっともポピュラーな人食い草食動物といえよう。

代表的なものに、ギリシャ神話に登場するミノタウロス(Minotaur)が挙げられる。

この怪物は、クレタ島の王ミノスの妻パシパエが、ポセイドンの呪いで牡牛と交わったことで誕生したとされる。
その姿は牛の頭に人間の体という、この上ない異形であった。

非常に獰猛な性格であり人肉を好んだため、王ミノスは工匠に命じ迷宮を作らせ、そこにミノタウロスを閉じ込めた。

その後ミノスは、9年ごとにアテナイから7人の少年と7人の少女を貢納として差し出させた。
(アテナイは災厄に見舞われ、クレタとの和解条件として若者たちを送ったとも伝えられる)

だがある時、テセウスという青年が迷宮に乗り込み、ミノタウロスを退治したことで生贄が捧げられることはなくなったという。

鹿のケース

画像 : 伊佐々王 草の実堂作成(AI)

播磨国(現在の兵庫県南西部)の地誌『峯相記』には、凶悪な人食い鹿にまつわる伝説が記されている。

昔々、安志(あんじ)という地の山奥に、伊佐々王(いざさおう)なる大鹿が棲んでいたそうだ。

その全長は6mほど、両角は7つに枝分かれし、禍々しい姿をしていた。さらに背には笹が生え、足には水かきがあり、その目は太陽のようにぎらぎらと輝いていたという。

伊佐々王は人間を餌とみなし、数千頭の鹿を従えて人里を襲い続けていた。
あまりにも被害が多く出たため、帝の命により播磨の国中から兵士が集められ、伊佐々王の討伐隊が結成された。

討伐軍との戦いで、伊佐々王は地面がえぐれるほど暴れ狂ったが、やがて力尽き「このあと消ゆることなかれ!」と叫んで息絶えたとされる。

この穴だらけになった土地は後に「鹿ヶ壺」と呼ばれるようになり、なかでも最も大きな穴は、伊佐々王が死んで横たわったときにできたものだと伝えられる。

最後の言葉の通り、痕跡は消えることなく残り続けたのである。

馬のケース

画像 : 馬の噛む力を侮ってはいけない 写真AC cc0

人は馬肉に舌鼓を打つが、逆に馬もまた、人を美味いとばかりに食らうことがある。

有名なものに「ディオメデスの人食い馬」が挙げられるが、他にも世界各地には人を食った馬の伝承が残されている。

19世紀の英語文献には、インドのアワド王国の首都ラクナウに、恐るべき怪馬がいたという逸話が見える。
その馬はアドミー・カナワラ(Admee-Kanawallah)と呼ばれる栗毛の牡馬で、人間を手当たり次第に襲って食い殺す、凄まじく凶暴な馬として語られている。

この馬の話を聞いたアワドの王は非常に興味を持ち、ペットの虎と戦わせることを決めた。
そしていざ戦いが始まると、アドミー・カナワラは虎の顎を粉砕し、敗走させた。
王はこの馬をいたく気に入り、部下に命じて巨大な檻に入れて飼わせたという。

こうしてアドミー・カナワラはラクナウの名物となり、一生を檻の中で過ごしたとされる。

日本における人食い馬といえば、小栗判官の愛馬、鬼鹿毛(おにかげ)が名高い。

画像 : 小栗判官と鬼鹿毛 草の実堂作成(AI)

小栗判官といえば、歌舞伎や浄瑠璃などの伝統芸能で語られる、伝説上の人物である。

ある時、小栗は照手姫という女性と結婚することになった。これを快く思わなかったのが、照手姫の叔父である横山大膳であった。

大膳は小栗を抹殺すべく、鬼鹿毛が飼われている馬小屋へ彼を案内した。鬼鹿毛は恐るべき人食い馬であり、馬小屋は犠牲者の骨や髪が散乱する、地獄のような様相であったという。

鬼鹿毛は小栗を見るや、今にも食らいつかんばかりであった。だが小栗は動じることなく、「己の馬となれば、死後は仏として祀る」と説き聞かせた。

すると鬼鹿毛は涙を流し、小栗をその背に乗せることを許したという。
その後も小栗と照手姫はなお多くの難に見舞われるが、数々の試練を経て、ついに結ばれた。

この場面は伝統芸能で「碁盤乗り」として知られ、今なお名場面として演じ継がれている。

人食い草食動物の伝承は、ただの奇談ではなく、身近でおとなしいはずの生き物が牙をむくことへの不気味さを語り継いだものだったのかもしれない。

参考 : 『ヘシオドスの断片』『峯相記』『The Private Life of an Eastern King』
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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