安土桃山時代

飢餓を恐れた加藤清正が「熊本城」に施した秘策とは

画像 : 加藤清正 public domain

肥後熊本の初代藩主である加藤清正は、その功績から数々の異名を取った人物である。

「肥後の虎」「鬼将軍」などは猛将として知られる清正の武勇に由来した呼び名だが、彼は強く勇ましいだけではなく「築城名人」と呼ばれるほどの建築の手腕とセンスを持つ、築城の名手でもあった。

清正が建築に関わった城は名護屋城、江戸城、名古屋城、蔚山倭城など多数あるが、中でも肥後国領主となってから居城とした熊本城は、彼の経験や知識を基にした工夫が詰め込まれた難攻不落の城だった。

数多の困難な戦場を生き抜いて名声を挙げ、虎すらも恐れないと讃えられた清正が何より恐れたもの、それは「飢餓」である。

今回は、加藤清正が食糧難を恐れるようになった理由や、日本三名城の1つに数えられることもある熊本城に詰め込まれた驚きの秘策について掘り下げていきたい。

清正はなぜ「飢餓」を恐れるようになったのか

画像:蔚山籠城図屏風(断片) – 福岡市立博物館所蔵 public domain

一般的に、清正は慶長の役で明・朝鮮軍の間に起きた「蔚山城(ウルサンソン/いさんじょう)の戦い」で、飢餓のトラウマを植え付けられたと考えられている。

清正が陣頭指揮を執った蔚山城の戦いにおける籠城戦では、冬季の寒さと飢え、渇きにより日本軍は苦戦を強いられた。

標高50mほどの小山に築城された蔚山城は、1597年に急ピッチで築城が進められ、城郭自体は短期間でほぼ完成したものの、籠城に必要な食糧と飲料水の確保・備蓄が不十分なまま明・朝鮮軍に包囲され、防衛戦を余儀なくされたのである。

清正は側近約500名を率いて急襲された蔚山城に入城し、1万前後の兵とともに籠城したと伝えられている。

結果だけを見れば、清正率いる日本軍は援軍が来るまでの14日間にわたり蔚山城を守り抜いたが、食料どころか水までもが籠城早々に底をついていた。

一説には牛馬を殺してその肉を食らい血を飲み、それでも足りずに自分の小便を飲んで喉の渇きをしのぐような惨状で、戦死者に加えて多くの餓死者も出たと伝えられている。

画像:鳥取城 全景(後背に久松山)wiki c Saigen Jiro

さらに清正の初陣については諸説あるが、実質的な初陣は蔚山城の戦いの16年前に起きた、かの有名な「鳥取城の渇え殺し」が行われた因幡の戦いとされている。

清正の主君であった豊臣秀吉は因幡の戦いにおいて、鳥取城周辺で暮らす領民たちを城内に追い込んで、その後、鳥取城を徹底的に包囲して兵糧攻めを行った。

補給の術を失った鳥取城内は極限の飢餓状態に陥った。
備蓄が尽きた後は牛馬を殺して食べても食料が足りず、雑草どころか味方の死者までをも食べなければ飢え死ぬような、地獄の惨状になったという。

鳥取城主の吉川経家が切腹し、将兵の助命を条件に開城がなされたあと、なんとか生き残った者たちが極度の飢餓の中で配給された粥を口にし衰弱のあまり倒れていった光景を、清正が実際に目の当たりにしたかどうかは定かではない。

だが少なくとも清正は、どんなに守りの固い城と強い兵を備えたとしても、飢えと渇きが死と敗北に直結しかねないことを、知識と経験でもって重々承知していたのだ。

千葉城と隈本城を取り込んで熊本城を築城

画像:熊本城 大・小天守 wiki c くろふね

清正が熊本城の築城に取り組み始めたのは、秀吉の九州平定後、肥後国領主となった佐々成政の改易を受けて清正が肥後北半国を与えられた後のことである。

成政に代わって肥後北半国の領主を任じられた清正は、1591年頃から、もともと室町時代に築かれていた隈本城の整備に着手し、のちに千葉城と隈本城を取り込む形で茶臼山丘陵一帯へ城郭を広げていった。

築城が本格的に始まったのは秀吉が病没し、清正が朝鮮から帰国した1598年以降で、関ヶ原の戦いが起きた1600年頃に大天守が完成している。

その後1607年には新城の一通りが完成し、その名は「隈本」から「熊本」へと改められた。

築城名人・加藤清正が戦場での経験に基づく知識と技術を詰め込んで築城した熊本城には、上に行くにつれて緩やかな勾配が垂直に近い形状になっていく「武者返し」と呼ばれる石垣が多用され、城の弱点となる西側区域には攻撃を有利に行うための工夫が備えられていた。

防衛戦を想定して築城された熊本城で初の籠城戦が行われた西南戦争では、西郷隆盛が率いる薩摩軍が熊本城に立てこもる政府軍に対して猛攻を仕掛けたが、ついに熊本城を落とすことができなかったという。

井戸を多数掘り水を確保、壁や畳には食材を利用

画像:復元された熊本城本丸御殿・昭君之間(しょうくんのま) public domain

「史上最悪の兵糧攻め」と呼ばれる因幡の戦いに勝者側として参戦し、蔚山城の戦いでは逆に飢えと渇きに苦しみながらの籠城を耐え抜いた清正は、有事に外部からの食糧と水の補給ができない状況を想定して、熊本城を「食べられる城」として構築したという説がある。

城内の建物の土壁には補強材としてかんぴょうや芋がらが用いられ、本丸御殿の畳にも芋がらが使われたと伝えられている。
1610年に建設が始まった本丸御殿でも、大広間の畳に芋がらが畳芯として用いられたという。

芋がらやかんぴょうは、今でも和食の材料としてよく使われる食材だ。

両者とも乾燥状態なら長く保存が可能で、特に芋がらは植物でありながら炭水化物、タンパク質、脂質を含んでおり、味噌で煮てから乾かせば縄上にして持ち運べるので、携帯食として下々の兵たちにも重宝されていた。

画像:『成形図説』より wiki cc

さらに朝鮮で飲料水の枯渇に苦労した経験から、敷地内に約120箇所も豊かな水が湧く大きな井戸を掘り、水の確保に尽力した。

この豊富な井戸は西南戦争の約50日に及んだ籠城戦でも重宝され、政府軍の勝因の1つになったという。

ちなみに熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれるが、これは清正が城内に植えたイチョウの木が由来とされている。

イチョウの雌木になる実はギンナンとして食べられるが、熊本城のイチョウは雄木であるため実はならない。

そのためイチョウが食糧不足に備えて植えられたという話は、後世に創作された俗説だと考えられている。

有事に備えて築城された火の国を象徴する名城・熊本城

画像:熊本城の「奇跡の一本石垣」photoAC

江戸幕府が開かれた後、清正の存命時には幸いにも熊本城が包囲されるような戦は起きなかったが、関ヶ原の戦い後の不安定な情勢の中で、島津氏率いる薩摩などの脅威から肥後を守るために、熊本城は築城されたという。

熊本藩主が細川家に代わった後も増築や改修が繰り返され、明治の西南戦争では建物のほとんどが焼失したが、その多くが昭和から平成にかけて復元された。

しかし2016年4月14日から発生した熊本地震では、熊本城も石垣や建物が倒壊、崩落するなど大きな被害を受けた。

飯田丸五階櫓を支えていた石垣の南西の角石は、たった12個のみで上の崩れかけた櫓を支え続けていたことから「奇跡の一本石垣」と呼ばれ、人々に少なからず希望を与えた。

築城名人・清正が知識と経験を基に心血注いで築城した熊本城は、加藤家が断絶した後の世も人々に「清正公の城」と語り継がれ、親しまれ続けたのだ。

「火の国」熊本の象徴として愛される熊本城は、熊本地震からの復興の象徴ともなり、多くの人々の熱意と寄付によって、震災から10年の月日が経った今も着々と修復作業が続けられている。

参考文献
鷹橋忍 (著) 『城の戦国史 どう攻めたか いかに守ったか
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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