「天下人の石」と呼ばれ、代々、時の権力者に引き継がれた「藤戸石(ふじといし)」をご存じでしょうか。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、織田信長(小栗旬)が、15代将軍・足利義昭(尾上右近)のために造営した二条御所の庭に設置するべく、この藤戸石を運ぶにぎやかなパレードの様子が描かれていました。
実はこの藤戸石には、劇中では紹介されなかった悲劇の逸話があったのです。

画像 : 藤戸石を運ぶ信長たち イメージ
信長がド派手なパレードで運んだ「藤戸石」
「二条城」と呼ばれた城(屋敷)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて複数存在しています。
織田信長が足利義昭のために建設した二条城は、信長が自ら普請奉行として陣頭指揮をとり、約70日間ともいわれる驚きの短期間で築城しました。
そして「天下人の石」と呼ばれる藤戸石を庭に設置したことでも知られています。
『信長公記』や、公家・山科言継の日記『言継卿記』によると、藤戸石を運ぶ際、石を綾錦で包み花で飾り立て大綱を付け運び、信長自ら陣頭指揮をとって、パレードのように笛・太鼓などの音曲でにぎわいを演出しながら運んでみせ、京の人々を驚かせたとか。

画像:「太平記英勇伝 大多上総介平春永公 織田信長」歌川国芳 public domain
信長がこのようなド派手な演出をしたのは、財力・動員力・指導力があることを宣伝する最高のチャンスだったから、といわれています。
一見、縁起のよさそうな藤戸石ですが、先述したように悲劇の逸話があるのです。
浅瀬を教えてくれた漁夫の殺害場所にあった石
藤戸石の逸話は、『平家物語』の巻十「藤戸」の源平合戦に書かれています。
一の谷の合戦後の元暦元年(1184年)、備前国児島の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)で、源頼朝の異母弟・源範頼(のりより)が率いる平氏追討軍と、平行盛(ゆきもり)率いる平氏軍のあいだで「藤戸の戦い」が行われました。
藤戸合戦、児島合戦とも呼ばれます。
この場所は現在は陸地ですが、合戦当時は海だったそうです。
本土側の備前国西河尻・藤戸に陣を構えた範頼勢は、海の波が高いうえに船もなく、500m程度の距離の海峡を渡れずに困っていました。

画像 : 藤戸の戦いで渡海する佐々木盛綱(歌川国芳画)public domain
『平家物語』などでは、源氏軍の佐々木盛綱(もりつな)は「馬で海を渡れる場所はないか」と地元の漁夫に聞き込みを開始し、1人の漁夫から浅瀬の目印となる石の場所と潮の時を教えられ、現地まで案内されたといいます。
ところが、盛綱は情報が漏れることを恐れ、その漁夫を殺してしまったのです。
この石は藤戸の地にあることから「藤戸石」と呼ばれ、浅瀬の目印であると同時に、漁夫殺害と結び付いた石として後世に語られるようになりました。
漁夫にとっては悲劇ですが、武家社会においては盛綱の栄光の象徴でもあり「天下の名石」と評されたのです。

画像:漁師を殺す盛綱(歌川国芳画)public domain
母の恨みと殺された漁夫の霊が登場する謡曲『藤戸』
室町時代には、この悲劇を題材にした作者未詳の謡曲『藤戸』も生まれました。
あらすじの詳細は以下の通りです。
源氏の武将・佐々木盛綱は、藤戸の合戦で海を馬で渡って先陣の功を挙げ、児島を与えられる。
ある春の日、盛綱が領地に入ると、1人の老婆が現れ「おまえが我が子を殺した」と激しく訴える。盛綱は当初、身に覚えのないことのように振る舞う。だが老婆の執拗な追及の前についに口を開く。
それは、かつて若い漁夫から馬で渡れる浅瀬の場所と潮の時を聞き出したのち、口封じのために殺し、海へ沈めたという告白であった。それを聞いた老婆は半狂乱となり「我が子を返せ、自分も殺せ」と迫る。
盛綱はこれに対し、亡き漁夫を手厚く回向することを約束する。後日、海辺で管弦講を営み、般若経を読んで供養すると、殺された漁夫が亡霊となって海上に現れる。
亡霊は、自らが刺し殺され、海に沈められた惨劇を再現してみせ、無念の深さを訴える。やがて亡霊は悪龍の水神となって盛綱に迫るが、回向を受けたことで救われ、ついには成仏して去っていく。
史実か、のちの創作か
謡曲『藤戸』は、強い教訓性を備えた構成になっており、後世に倫理的な説話として練り上げられた面もうかがえます。
実際、『吾妻鏡』には佐々木盛綱が藤戸の海を先陣で渡って功を立て、恩賞を受けたことは見えますが、漁夫殺害には触れていません。
そのため、この悲劇をどこまで史実とみるかについては、今も見方が分かれています。
歴代の権力者に所有された「藤戸石」

画像:醍醐寺三宝院の藤戸石(右の長方形の石)photo-ac KINTAROU-I
いずれにしても、浅瀬の目印として語られたその石は、やがて「藤戸石」と呼ばれるようになり、名石として歴代の権力者のあいだを渡っていきます。
▪️足利将軍家
藤戸石の伝来には諸説ありますが、室町時代にはすでに将軍家にゆかりのある名石として扱われていたと伝えられています。義満や義政の時代に将軍家の庭に置かれたとする説もあり、この頃には藤戸石は、単なる土地の石ではなく、由緒ある名石として見られていたようです。
▪️細川家と信長
戦国期には藤戸石は細川家のもとにあり、永禄12年には、信長が足利義昭の御所に置くため、細川藤賢の屋敷からこれを運ばせたことが記録に見えます。綾錦で包み、花で飾り、笛や太鼓で囃し立てながら京の町を曳かせたという逸話は、とりわけ有名です。
▪️足利義昭
藤戸石は、信長が造営した義昭の御所の庭に据えられました。信長にとってそれは、将軍への忠節を示す贈り物であると同時に、自らの権勢を京に見せつける象徴でもあったのでしょう。
▪️豊臣秀吉
その後、藤戸石は豊臣秀吉の聚楽第にも移されたと伝えられています。将軍家の庭を飾った名石は、今度は天下人の邸宅へと運ばれ、なお重い意味を帯び続けました。
▪️醍醐寺三宝院
慶長3年には、秀吉の命によって藤戸石が聚楽第から醍醐寺三宝院へ運ばれたことが確認できます。現在も三宝院庭園の主人石として知られ、長い伝来の終着点として静かに据えられています。
藤戸石は現在、三宝院庭園の中で重要な景石のひとつとなっています。
浅瀬の目印として語られ、合戦の悲劇とも結び付けられ、さらに将軍家や天下人の庭を渡ってきた石が、いまは寺院の庭に落ち着いている。
その経歴自体が、この石の特異さを物語っているといえるでしょう。
参考 :『平家物語』巻10「藤戸」『吾妻鏡』元暦元年12月7日条 醍醐寺公式サイト 他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

























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