
画像:人首川と明治記念館(岩手県奥州市江刺)photoAC
岩手県の内陸南部に位置する奥州市江刺に、米里(よねさと)と呼ばれる地域がある。
ここは豊かな自然と田畑が多くを占める山間の集落で、岩手出身の作家である宮沢賢治に所縁がある地としてもよく知られるが、明治8年の改称までは、人首村(ひとかべむら)という物々しい名で呼ばれていた。
その地名の由来になった人物こそが、鬼と呼ばれた「まつろわぬ民」の若き首領・人首丸(ひとかべまる/ひとこうべまる)だ。
当時15、16歳の見目麗しい少年だったと伝わる人首丸は、朝廷に追い詰められて山奥で悲劇的な最期を遂げ、その亡骸が埋葬されたのが米里にある大森山であるとされる。
今回は、朝廷に抗ったがゆえに鬼と呼ばれた古代日本の蝦夷の歴史や、謎多き「人首丸」の伝説に触れていきたい。
蝦夷と朝廷の対立・三十八年騒乱

画像:束稲山登山口付近のアテルイ像 Koda6029 CC BY-SA 4.0
古代日本における蝦夷(えみし)とは、本州東部以北に住み、ヤマト政権の支配に完全には組み込まれていなかった人々を指す。
古くは『古事記』『日本書紀』の「神武紀」にも記された蝦夷の人々と朝廷の対立は、ヤマト政権が勢力を拡大し始めた古墳時代からあったという。
そして奈良時代末期にあたる774年、光仁天皇の時代に起きた※桃生城襲撃事件をきっかけにして、朝廷と蝦夷との間に本格的な武力衝突が断続的に勃発するようになった。
※桃生城(ものうじょう)襲撃事件とは、朝廷が陸奥国桃生郡(現在の宮城県石巻市)に築いた城柵・桃生城を、朝廷に対して反乱を起こした北上川下流域から三陸沿岸にかけて居住していた蝦夷が襲撃した事件。
774年に朝廷が蝦夷討伐のために動き出して以降、811年の嵯峨天皇の時代まで約38年間続いたこの「征夷の時代」は、後に三十八年騒乱、もしくは三十八年戦争と呼ばれるようになった。
人首丸の出自

画像:アテルイ、モレの顕彰碑 (京都市清水寺) wiki c Tomomarusan
実のところ、人首丸が実在したという記録は正史にはない。
伝承によれば人首丸は、東北地方に住んでいた鬼の頭領・悪路王(あくろおう)の甥であり、悪路王の弟である大武丸(おおたけまる)の息子で、15、6歳の美しい少年だったとされる。
大武丸は岩手山を根城にしていた鬼であり、兄の悪路王と同じく、朝廷から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂に征伐されたと伝わる。

画像:坂上田村麻呂(月岡芳年画)public domain
悪路王は伝説上の人物であるものの、実在した蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)と同一視する説や、阿弖流為をモチーフにして創出されたと考える説があり、特に人首丸伝説においては阿弖流為と悪路王は同一視されている。
こうした伝承では、田村麻呂の説得に応じて朝廷に降ったはずの伯父と父が討たれた後、人首丸は江刺まで落ち延びて大森山の岩屋に立てこもり、抗戦を続けたとされる。
朝廷軍に比べて兵数や軍事力は大きく劣るものの、大森山中での地の利は人首丸側にあった。
大森山の地形を知り尽くしていた人首丸は、霧に紛れて幾度も朝廷軍を翻弄し、4年に渡って抵抗を続けたという。
故郷を守るために戦い続けた人首丸の最期

画像:種山ヶ原 人首丸の墓碑は種山ヶ原の西側に位置している public domain
朝廷に従うことを拒み、抗戦し続けていたとされる人首丸だが、伝承では806年の秋、ついにその命運が尽きたと語られている。
朝廷軍は霧に紛れて姿を消してしまう人首丸を捕らえるために、霧が少なくなる秋に入ってから山の要所に見張りを置いて、兵糧攻めを行う作戦に打って出た。
これが功を奏し、追い詰められ岩陰に身を隠していた人首丸は、坂上田村麻呂の娘婿と伝わる田原阿波守兼光の兵に捕らえられ、斬首された。
その首級を確かめた際、朝廷軍を苦しめていた鬼の頭領が年端もいかない美しい少年だったことを知った兼光は、その死を悼んで大森山に亡骸を埋葬し、墓石と聖観音像を建立して若き御霊を供養したという。
獣道のような林道を進んだ先の大森山の山奥には、人首丸の墓碑が今でも静かに佇んでおり、近くには苔むした巨石が組み合わされた大森観音堂跡という名の岩屋も残されている。
古代のドルメン(支石墓)を思わせるその佇まいは、人の侵入を拒むような深い山林の中で、人間の世界と自然が融合したような不思議な存在感を放ち続けている。
郷土の英雄になった人首丸

画像:宮沢賢治 public domain
征夷の時代から時が過ぎ、宿場町として東北の交通の要所となった人首には多くの人が訪れるようになった。
岩手を代表する童話作家である宮沢賢治は、記録に残るだけでも1度目は江刺の地質調査のため、2度目は種山ヶ原を旅する際の拠点として人首を訪れており、人首の早朝の情景を詠った詩『人首町』を残してもいる。
また同じく賢治が書いた『原体剣舞連(はらたいけんばいれん)』は、賢治が1度目に人首を訪れた際、近隣の田原村で見た民俗芸能「原体剣舞」がモチーフとなった。
『原体剣舞連』に悪路王の名が出てくる通り、この剣舞は舞手が朝廷軍と戦った鬼の姿を模して舞う鬼剣舞だ。
さらには「原体剣舞」は大人ではなく子どもたちが舞手を担うことから、その清らかさで先祖の御霊を鎮める目的で伝えられてきた、念仏踊りの一種であると考えられている。
朝廷側から見れば反逆者の生き残りという立場にあった人首丸は、正史やそれに準じる史料には、その名前どころか同一人物と思われる記録すら残されていない。
しかし、実在したかどうかもわからない少年の巨大な墓碑が人里離れた山奥に実在しており、その傍らに建てられた標柱の裏面には「郷土の英雄」という文字が記されている。
宮沢賢治は「鬼」を恐怖の対象としてではなく、自らが生まれ育った愛する郷土、岩手のエネルギーや死生観を表す象徴に用いた。
同じように人首に住んでいた人々は、権力に抗い続けた蝦夷の戦士を反逆者ではなく、命がけで郷土を守ろうとした英雄とみなし、その悲運を悼んで山奥に鎮まる人首丸の墓碑を、忘れ去ることなく大切にし続けてきた。
人首丸は実在が立証できない伝説上の人物だが、彼が守ろうとしたと伝わる郷土の地には、時の権力者すら思うままにはできなかった土着の人々の意思が、連綿と受け継がれているのである。
参考文献
八木澤 高明 (著)『忘れられた日本史の現場を歩く』宮沢 賢治 (著)『春と修羅』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























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