豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)
豊臣秀吉と言えば、百姓時代に木下藤吉郎と名乗っていた人物で、百姓の出身で天下統一を果たした人として評価されている。秀吉の人柄について、司馬遼太郎が人たらしという評価をしているが、この秀吉の人柄が大河ドラマなどで演じられている。この人柄が好きで秀吉のファンがいると言われている。
豊臣秀吉について、秀吉の天下統一までの過程と天下統一以降の政策の2回に分けて取り上げたい。今回は織田家に仕えてからの秀吉と本能寺の変以降の天下統一までの過程について取り上げたい。
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織田家に仕えてからの 豊臣秀吉
当時、木下藤吉郎は1550年代から織田信長に仕え始めた。当時、信長は意欲と能力のある武士の次男・三男以下の若者を積極的に採用していた頃であった。百姓出身の人に対しても能力と意欲があれば採用していたと考えられ、藤吉郎と信長の出会いはその頃から始まったと考えられる。
美濃攻めの際、斎藤龍興の家臣であった竹中半兵衛などを交渉によって味方にすることに成功した。
竹中重治像(禅幢寺所蔵)
また、美濃の山賊であった蜂須賀小六を味方につけることにも成功している。藤吉郎の交渉術が優秀な家臣を引き抜く要因になったと考えられる。後に、黒田官兵衛が藤吉郎の家臣として仕えている。
如水居士画像(崇福寺蔵)
交渉の時の人懐っこい部分が優秀な人材を引き抜く要因になったかもしれない。
藤吉郎は戦で功績を上げ、浅井氏が滅んでから近江国を任されるようになった。
この頃から名前を木下藤吉郎から羽柴秀吉に変えたと言われている。秀吉は近江国を任されるようになってから、都市政策にも力を入れるようになった。具体的には、今浜を長浜に名前を変えたうえで、商業が活発になるような政策をとったことで賑わったと言われている。
秀吉が近江国を任させるようになってから、信長から中国地方の征伐を命じられた。
秀吉は播磨国の赤松則房・別所長治・小寺政職を従わせるとともに黒田官兵衛から姫路城を譲り受ける形で播磨国を勢力下においた。その後、2年にわたって三木城を包囲して兵糧攻めにして別所長治を降伏させた。
この戦いは三木合戦で、兵糧攻めの様子から三木の干し殺しと呼ばれている。他に、鳥取城を兵糧攻めで落とした。備中高松城では水攻めで城を落とそうとしていたことから、秀吉は城攻めの名人として伝えられるようになった。
本能寺の変から天下統一までの豊臣秀吉
(1)本能寺の変と秀吉
本能寺の変を知った秀吉は、毛利輝元と講和をしてすぐに明智光秀を討つために京都に引き返した。たった数日で中国地方から京都に引き返したことから「中国大返し」と呼ばれている。
山崎の戦いで明智光秀を破ってから、信長の遺領について話し合う清須会議において、秀吉が後継者として信長の子で幼少の三法師を推し、他の家臣も推したため、清須会議が決着した。秀吉は幼少の三法師の後見役として務めることになるが、実質信長の後を継いだことになる。その後、清須会議で対立していた柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、天下統一に向けて動き始めた。
(2)小牧長久手の戦いでの敗北
賤ヶ岳の戦いで、信長の後継者としての地位を築いた頃、石山本願寺の跡地に大阪城の築城を始めた。当時の大阪城は絢爛豪華であると言われ、天下統一を果たしてから黄金の茶室ができたことで知られている。
大阪城を築城し始めた頃に、秀吉に反発する勢力も現れた。
信長の後継者になれなかった織田信雄などが勢力を集めて徳川家康と協力して反旗を翻した。これがきっかけで小牧長久手の戦いが始まった。秀吉軍の総大将は豊臣秀次で、10万の兵がいたが、3万の徳川軍に敗れた。秀吉は徳川家康に小牧長久手の戦いで敗れたことから、秀吉の妹と母親を家康の人質として差し出し、家康を従わせることに成功した。
(3)関白豊臣秀吉による天下統一へ
秀吉は小牧長久手の戦いでの敗北後、四国平定・九州平定を進めていった。この頃に関白に任命された。
武士で百姓の出身が関白になったのはこれが初めてである。
関白になるには摂関家の人間でなければならず、関白に任命される前に近衛前久の養子になっている。関白になってから羽柴秀吉から豊臣秀吉と名乗っている。九州平定後はバテレン追放令を出し、キリスト教を禁止する政策をとった。
九州地方を平定してから、小田原征伐を始め、1590年に北条氏を降伏させた。北条氏を降伏させたことをもって、秀吉の天下統一事業が完成したと言われている。なお、毛利・長宗我部・島津・徳川など有力大名については滅ぼさないで家臣として従わせる形をとっている。
今回は、百姓時代の木下藤吉郎から関白豊臣秀吉までの天下統一に至る過程について取り上げた。天下統一後の秀吉について、権力を得たら人が変わったという印象を持っている人が多いと思われる。次回は、天下統一後の秀吉の政策について、百姓時代の経験を生かした政策を中心に取り上げ、実際の秀吉の人物像について考えてみたい。
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