―本能寺の変以降の織田氏―
1. はじめに
「戦国大名としての織田氏(1)―下剋上から桶狭間の戦いまで―」では、尾張国守護代から台頭した織田氏と桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長について取り上げた。
ここでは、桶狭間の戦い以降の織田信長と本能寺の変以降の織田氏について取り上げたい。
まず、桶狭間の戦い以降の織田信長については戦の変遷について時系列で取り上げる。本能寺の変以降の織田氏については信長の死後の織田氏を中心に取り上げる。
2. 桶狭間の戦い以降の織田信長
※桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)出典wiki
桶狭間の戦いで今川義元を破ってから、織田信長は美濃の斎藤氏を攻略するために、父信秀の代から対立していた松平氏と同盟を結んだ。
この同盟は清州同盟と呼ばれている。
義龍の急死後、龍興が跡を継いだが、斎藤氏の家中で対立が起こり、家臣の中には織田に寝返る者やクーデターを起こす者が出た。
信長は斉藤氏の稲葉山城を攻め落とすと、当時の井ノ口という地名を岐阜と改め、拠点を尾張から岐阜に移した。
信長が美濃を平定した頃、当時の室町幕府の将軍は身の安全を確保するため、全国の戦国大名の庇護を受けるために転々と場所を移していたと言われている。
当時、室町幕府の将軍は15代足利義昭で、越前の戦国大名朝倉義景に身を寄せていた。
※足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)
桶狭間の戦いや美濃平定を聞いた義昭は信長を頼って上洛したと言われている。※ここでは明智光秀が義昭と信長の橋渡し役をする。詳しくはこちら
美濃を平定した頃に、信長は近江国の戦国大名浅井氏や信濃国の武田勝頼に養女を嫁がせて同盟を結び、周囲を固めていた。
周辺の国と同盟を結んで盤石の体制を作っていたが、越前の朝倉氏を攻めると、同盟を結んでいた浅井氏が裏切った。浅井氏の裏切りの後、足利義昭と信長が対立するようになり、義昭が信長打倒のために伊勢国と石山本願寺における一向一揆、武田信玄、毛利元就などが信長を包囲するような形で追い詰めようとしていた。
信長包囲網が完成したが、武田軍が三方が原の戦いで徳川氏を破った後、信玄が病死したことで包囲網が崩れ、信長は姉川の合戦で浅井・朝倉氏を破り、後に両氏を滅ぼした。
伊勢国での伊勢長島の一向一揆や石山本願寺での一向一揆が長期化していたが、一向一揆を鎮圧することに成功した。
石山本願寺の一向一揆に対して、信長は木津川口の戦いで本願寺への補給へやってきた毛利水軍に対して鉄甲船を用いたという説がある。
※織田信長軍が使用した安宅船
武田信玄が病死してから、信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったものの武田氏を滅ぼすまで長期化していた。
勝頼が信玄の時よりも領土を広げていることや戦い方を変えるなど改革を進めていたことから、信長は勝頼を脅威であると感じ、噂を流して内部から切り崩していた。
詳しくはこちらの記事にて → 武田勝頼は本当に無能だったのか?
長篠の戦いから年月がかかったが、天目山の戦いでついに武田氏を滅ぼした。
武田氏を滅ぼしたのは信長が本能寺の変で倒れるまで約3か月前の出来事である。
3. 本能寺の変以降の織田氏(信長の嫡男達)
織田信長は天下統一を目前にして本能寺の変で自害した。
本能寺の変以降の織田氏についてはほとんど本などで取り上げられることがないので、知らない人が多いのではないかと思われる。
本能寺の変で織田信長の嫡男信忠も自害に追い込まれ、その嫡男三法師(織田秀信)が跡を継いだが、幼少であったことから実質その後ろ盾であった豊臣秀吉による政権であると言われている。
※織田秀信像(滋賀県大津市聖衆来迎寺蔵)
後に天下統一した秀吉に岐阜城を拠点に大名として取り立てられたが、関ケ原の戦いで西軍についたことから改易され、織田家嫡流は滅んだと言われている。
信長の次男である織田信雄(のぶかつ)は江戸時代に一大名として存続している。
※織田信雄像 出典wiki
信長の三男である信孝(神戸信孝)は秀吉との抗争に敗れ、1583年に自害したと言われている。
※織田信孝像 (歌川国芳作)
信長の四男以降については、中には病死したものがいたが、江戸時代では旗本や大名の家老として織田家の血を引き継いだと伝えられている。
信長の弟の有楽斎(織田長益)は茶人として知られる人物で、関ケ原の戦いでは東軍の徳川方についていた。
※織田長益像(正伝永源院蔵)
江戸時代では子孫が藩主、旗本、家老になったという記録が残っている。
4. おわりに
ここでは、織田信長が天下統一を目前にして本能寺の変で倒れるまでの過程と、本能寺の変以降の織田氏について取り上げた。
本能寺の変以前の織田信長については、今川義元を破った桶狭間の戦い以降がテレビのドラマになったり、関連する本が出版されたりすることが多く、多くの歴史ファンの間で知られている。
しかし、本能寺の変以降については徳川氏や豊臣氏が表舞台で取り上げられることが多く、織田氏についてはほとんど出ることがないため、江戸幕府で一大名や旗本として残っていることについてあまり知られていないと思われる。
そして現在も信長の血はその子孫達に脈々と受け継がれている。
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