戦国時代

【謎だらけの戦国時代屈指の才女】 小野お通とは 〜真田信之が想いを寄せる

小野お通とは

小野お通(おののおつう)は、和歌・書画・絵画・琴・舞踊など諸芸百般に秀でており、特に当代きっての女流書家として活躍した女性である。

様々な逸話や説があり、位の高い女性たちの師や侍女をした戦国時代屈指の才女であったという。

彼女についての詳細な史料が残っていないために「謎多き才女」と呼ばれ、信州松代藩主・真田信之が想いを寄せた愛しい人だとも言われている。

今回は戦国時代に名を残す謎多き京の才女・小野お通について掘り下げていきたい。

出自

小野お通とは

イメージ画像  ※https://app.leonardo.ai/

小野お通の出自や経歴については諸説あり、生年は永禄10年(1568年)または永禄9年(1567年)だとされている。没年については元和2年(1616年)説と寛永8年(1631年)説がある。

大日本史料によると、美濃の地侍で斎藤道三の家臣だった小野正秀の娘とする説と、美作国津山城近くの押入下村の岸本彦兵衛の娘だとする説がある。

小野正秀の娘説によれば、小野氏は元々諸国を巡って芸を披露する「遊芸人」の一族で、そのような家に生まれたお通は幼少の頃から諸芸を学んでいたという。

父・小野正秀は斎藤道三の亡き後に浅井長政に仕え、長政とお市の方の長女・茶々(後の淀殿)に従った。

その後、織田信長に従った正秀は、本能寺の変森蘭丸らと共に討死したとある。

当代一の才女

京都にいたお通と母は、京都の公卿・九条稙通(くじょうたねみち)に匿われた。お通は高名な古典学者であった九条稙通のもとで和歌を学んだという。

そして、亡くなった信長と親交があった「寛永の三筆」と称された公卿・近衛信尹(このえのぶただ)から書を学んだ。
このように和歌や書に関して、当時の女性としては最高峰の教育を受けていたのである。

特に書においては当代を代表する女筆で「お通流」と呼ばれた。

小野お通とは

画像 : 北政所・ねね『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)public domain

そのため豊臣秀吉の正室・北政所の側近侍女となり、侍女たちの教育係を任され、慶長3年(1598年)秀吉の醍醐の花見にも招かれたという。

この花見において歌を詠んでいる。

「花見れば いとど心も 若みどり をひせね春に 逢ひ老の松」

「あかざりし花に 心を遺しつつ 我が身は 宿にかへりぬるかな」

その後に結婚しているが、豊臣秀次の家臣・塩川志摩守に嫁いで一女を設けてすぐに離縁したという説と、塩川志摩守と離縁した後に公家に仕えた侍・渡瀬羽林(わたせうりん)と再婚後に一女を設けたとする説がある。(※どちらが正しいのかは不明だが、一女を設けた)

また、淀殿や明智光秀の娘・細川ガラシャにも学問や和歌などの手ほどきをしたという。

絵画にも才能を発揮し、狩野派の狩野光信を踏襲した作風で「霊昭女図」「柿本人丸画像」「豊臣秀吉像」「徳川家康像」といった作品が現存している。

画像 : 小野お通筆柿本人麿自画賛 cultural.jp CC BY 4.0 DEED

家康へ仕官

秀吉が亡くなって北政所が高台院として隠居すると、お通は徳川家康の元に仕官することになった。

慶長8年(1603年)豊臣秀頼に嫁ぐことになった秀忠の長女・千姫の付き人として大坂城に入城し、淀殿との親交も深めたという。

関ヶ原の戦い後、家康が江戸に幕府を開き、大坂城の淀殿・秀頼と対立することになると、慶長19年~慶長20年に「大坂冬の陣・夏の陣」が勃発した。

小野お通とは

画像 : 千姫 public domain

お通は千姫の命を守るために徳川軍についた武将たちとの交渉役を担い、千姫が大坂城から逃げ出すための手引きをしたという。
しかし、この行動によって淀殿から内通者と疑われて大坂城から追放されてしまう。
お通の働きもあって、千姫は無事に大坂城から脱出することができたが、秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡した。

豊臣家滅亡後、お通は2代将軍・秀忠に仕え、秀忠とお江の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇に入内した際に、介添女房役(侍女)として共に宮中に入った。

お通は京の文化や伝統に精通していたために、幕府の朝廷工作には欠かせない存在だったのだ。

お通は東福門院(和子)や新上東門院(阿茶局)に仕えたという。

真田信之との関係

お通は信濃国初代松代藩主・真田信之と関係があったという。

画像 : 真田信之 public domain

2人は天正15年(1587年)頃、信之が父・真田昌幸と共に京都で秀吉に謁見した際に出会ったのではないかと言われている。

そして信之は、お通に想いを寄せていたという説がある。

信之が上田藩から松代藩に転封になった時に、お通から見舞状を受け取った。そして信之は返書に

「姥捨山や更科といった古典に出てくる名勝が松代藩内にあるので、是非とも松代に下ってきて欲しい」

と、お通を誘っているのだ。

信之の正室・小松姫は、徳川四天王の1人・本多忠勝の娘で男勝りな女傑であった。
信之は、小松姫と正反対のタイプのお通に惹かれていたのかも知れない。

小松姫はそんな2人の関係を知り、信之に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうか」と、お通を側室に薦めていたとも言われている。
しかし、小松姫が亡くなった後も、2人は書簡のやり取りをするだけの間柄で、お通は側室にはならなかった。

その後、お通の娘・小野のお伏が、信之の次男で松代藩2代藩主となった真田信政の側室として真田家に入ったという。
小野のお伏は、真田家の分家の祖となる信就を産んでいる。

当初、お伏は息子に「真田」姓を名乗らせることを断っていたというが、信政の説得で真田家の分家・真田勘解由家が成立した。

その後、真田宗家の嫡流の早世が続き、信就の7男・信弘が養子となり真田宗家を継ぐことになったという。

おわりに

当代きっての才女だった小野のお通は真田信之の側室にはならなかったが、死後にお通の血流が真田家に入り、信之とお通は亡くなった後に親戚となった。

小野のお通の墓は、真田家ゆかりの寺である江戸の広徳寺に娘・お伏と信就と共に祀られた。
また、吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場する「お通」は、小野のお通がモデルだと言われている。

参考 : 『小野お通』風景社

 

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