1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーは、ついにドイツの政権を掌握した。
オーストリアなどの周辺国を政治的圧力により無血でドイツの支配下においたが、ポーランドは強硬にこれを拒む。しかも、イギリスとフランスもポーランドをバックアップする構えを見せた。
こうして、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発したのだが、戦力や物資に乏しい初期のドイツ軍はなぜ、フランスを支配下におくまでの活躍を見せたのだろうか?
そこには電撃戦という戦術が重要な役割を果たしていた。
忌まわしき足枷
※ヴェルサイユ条約の調印
第一次世界大戦の敗戦により、ヴェルサイユ条約に縛られたドイツは軍備を大幅に制約されることとなった。
条約により軍備を10万人に制限され、参謀本部も禁止された。所有する小銃、機関銃、弾薬の数までが制約され、戦車・化学兵器・航空機の開発も禁じられている。秘密裏に友好国であったロシア奥地で戦車の開発研究などが行われたが、開戦時にはまだまだ「戦力」として十分な性能、十分な数の戦車は登場していない。
さらに第一次世界大戦では、実用化された戦車や航空機、無線通信機などの技術革新をどのように効率よく運用するかの理論が確立しておらず、塹壕戦による消耗という結果を招いている。
そうした反省からドイツの陸軍のヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークト(Johannes Friedrich Leopold von Seeckt、1866年4月22日 – 1936年12月27日)は、第二次世界大戦の開戦前から、量的制約を補う質的改善を進めるためには機動力が重要であると考えた。
ゼークトは、ナチ党が政権を握る前に退役しており、直接の関わりはないが、影響を与えたのは間違いない。
ドイツ軍によるポーランド侵攻
※ポーランド侵攻
1939年9月1日にドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、続いて1939年9月17日にソビエト連邦軍がポーランド領内に侵攻、対するポーランドは同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
結果的にイギリス・フランスを巻き込み、最終的にはアメリカとも敵対することになって、ドイツは戦線を維持できなくなるが、ポーランド一国に対してなら十分な戦力を投入できた。陸軍はI号戦車やII号戦車といった軽戦車を主力として、より攻撃力のあるIII号戦車やIV号戦車を含めて約2,400両の戦車を保有、6個の装甲師団を編制することができた。
ドイツ軍の戦車部隊を語るときによく耳にする「装甲師団」とは、戦車を中心に、歩兵、工兵、砲兵、偵察、通信などの諸兵科部隊が車両に乗って随伴する形態の師団のことである。これにより迅速な作戦行動が可能となった。装甲師団はドイツ軍での呼称だが、他国では機甲師団と呼ばれる。
ポーランドの地では、航空機による爆撃により民間・軍事施設を問わず無差別爆撃し、その後に陸軍が地上を制圧する連携が見られたが、これは殲滅戦であり、正確には電撃戦と呼べるものではなかった。
ドイツ軍によるフランス侵攻
※フランスの戦い
ポーランドで勝利を収めたドイツ軍は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグのベネルクス三国に侵攻を開始。
フランス・イギリス連合軍は軍の主力をベルギー方面に進出させ、フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を挟んでドイツ軍と対峙していた。マジノ要塞とは第一次世界大戦の教訓を活かして、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線である。一定間隔に要塞が構築され、ドイツ軍の侵攻を阻む目的があった。
しかし、ドイツ軍幕僚長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将が、ドイツ軍における戦車運用のパイオニアたるハインツ・グーデリアン中将の意見を参考にして、マンシュタイン・プランを計画。ヒトラーに高く評価された同プランで西方への侵攻が決まったのである。
政治的理由でフランスとベルギーの間にはマジノ線が建設されておらず、フランス・イギリス連合軍はここを経由してフランスに侵攻してくると予想していた。そこで、ドイツ軍はこのベルギーを経る侵攻軸を囮として残しつつ、戦車部隊には突破が困難と考えられており、マジノ線要塞も設けられていないアルデンヌの森を抜ける主侵攻軸を設定した。ドイツ軍の主力戦車が比較的小型だったこと、統制のとれた移動により素早く森を抜けられたことも大きい。
これにより、ドイツ軍の戦車部隊がフランス領内への侵攻に成功した。
電撃戦
※シュトゥーカ
混乱するフランス軍に対し、ドイツ空軍の精鋭・降下猟兵(空挺部隊)がベルギーの要塞を攻撃して無力化し、戦車部隊の突進を援助。各最前線では猛烈な事前砲撃とシュトゥーカ急降下爆撃機により、支援されたドイツ戦車部隊が、早々と戦意を喪失したフランス軍を蹂躙しつつ突進、装甲師団が形成する「鋼鉄の切っ先」が、急速にフランス領内へと切り込んでいった。
これが、戦史上に名高い西方電撃戦の始まりだった。
電撃戦の効果を高めたのがユンカース Ju 87 シュトゥーカである。シュトゥーカは急降下爆撃の機動に耐えるため機体構造が頑丈な反面、低速、鈍重で防弾設備が貧弱だったが、その精密な射撃精度は地上戦の支援に最適だった。
高高度から一気に降下し、低高度で爆撃を行い、急上昇する特性により、フランス軍のなかには「シュトゥーカからは逃げられない」といったパニックが起きたという。
シュトゥーカのパイロットの中でもずば抜けた戦果を残しているのが、ハンス=ウルリッヒ・ルーデルである。
彼は東部戦線に配属されたため、対ソ連戦にしか参戦していないが、シュトゥーカの特性を最大限に発揮し、戦車500両以上と800台以上の車両を撃破した。
後に全将兵の中で唯一「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された人物でもある。
陸軍と空軍の連携こそが電撃戦
※フランスを侵攻するⅠ号戦車とⅡ号戦車
それまでの戦争は、陸軍・空軍の連携を軽視していた。それでは機動力で劣ってしまう。そこで、最大限に機動力を発揮できる戦術が考案されたのだ。
航空機は指令を司令部の要請からでなく、前線部隊の要請を中心とした近接攻撃に集中して敵部隊に打撃を与え、無線通信を活用することで戦車や歩兵などの諸兵科連合部隊が敵陣深くに侵入する。従来の戦法と最も異なるのは、指揮権の権限委譲である。現場指揮官は、従来の中央集権的な指揮系統に頼るよりも、自らの判断に従うよう奨励された。
つまり、攻撃機・歩兵・戦車が無線により連絡を密にすることで、第一次世界大戦のような攻撃の順番を待たずに同時に運用することが可能となった。
これこそが電撃戦である。
電撃戦の確立で敵兵力の集中を奪い、攪乱・制圧することができるようになり、自軍の兵力を損耗を防ぐことができた。また、短期決戦のために補給物資が必要最低限でするという利点もあった。限られた兵力で敵地へ侵攻しなければならないドイツ軍にとって、必然的に生まれた戦術だったのである。
しかし、それはあくまで局地戦、戦術レベルの話であり、戦略的には戦域が広がれば戦力も分散し、物資の確保も難しくなる。電撃戦だけで戦いに勝つことはできないのだ。
最後に
この電撃戦のドクトリンは、現在でも通用する。
空挺部隊が対空陣地などを無力化し、航空機の爆撃で敵の戦力に打撃を与え、戦車・歩兵が地上を侵攻する戦術は、イラク戦争でも米英軍によって行われ、短期間のうちにイラク軍を無力化することに成功している。
その原点は、当時の情報管制を最大限に活かすことができたドイツ軍が生み出したものだった。
(第一次世界大戦とドイツの軍備については「第一次世界大戦とは何か調べてみた」「ドイツ軍の戦車の系譜を調べてみた」を参照
ハンス=ウルリッヒ・ルーデルについては「ナチス・ドイツの勲章について調べてみた」を参照)
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