石田三成の軍師である「島左近」は謎の多い人物である。
現在、島左近は「多聞院(たもんいん)日記」や「根岸文書」に「清興(きよおき)」とあるので、本来は清興を用いるのが正しい。また「勝猛(かつたけ)」とも呼ばれるが、確かな史料では確認できない。
島氏の出身地は大和国(現・奈良県)であるが、島氏そのものや左近の来歴については不明な点が多いのだ。
島左近 の逸話
【※島左近】
当初、左近は畠山高政(はたけやまたかまさ)に仕え、その後、大和の有力国人である筒井氏の配下に収まり、順慶(じゅんけい)の侍大将になったというのは伝承の域を出ないようである。
伝承によれば、左近は順慶の亡き後に家督を継いだ定次(さだつぐ)とは意見が合わず、筒井家を去ったという。浪人となった左近は一旦、法隆寺に身を寄せ、後に近江国へ下ったと伝わっている。さらにその後は、豊臣秀長、豊臣秀保、あるいは関一政(せきかずまさ)に仕官した。ところが、こうした左近にひとつの転機が訪れる。
それは、近江国内(現・滋賀県水口市)に所領をもった石田三成から招かれたことだ。
「常山紀談(じょうざんきだん)」という近世の編纂ものによると、三成は自身の領する4万石のうち、2万石を左近に与えるという破格の条件を示したという逸話は有名である。
新説!島左近は掘り出しものだった!
【※石田三成】
「三成に 過ぎたるものがふたつあり 島の左近と三和山の城」
これは、石田三成が能力に見合わないものを有していたという有名な皮肉であるが、実は三成にとっては最初から過ぎた武将を召抱えたわけではない。
実際は三成が水口を有していた時期のことというのは誤りで、おそらく三成が近江国佐和山城主になった1595年(文禄4年)以降のこととされている。このとき、三成は19万石を領しており、2万石という処遇は厚遇であったとしても、割合は小さくなる。従って、この逸話も誤りで、通常の範囲の中での待遇で迎え入れられた「掘り出し物」の武将だったといえるだろう。
近年、左近に関する新出史料が発見された。これまで、その生涯は伝承の域でしか知られていなかったが、研究は新しい段階に入ったといえそうだ。
大谷吉継、小早川の裏切りに散る
【※大谷吉継の錦絵】
さて、石田三成といえばもう一人忘れてならないのが盟友である大谷吉継(おおたによしつぐ)である。
関ヶ原合戦では、西軍有力武将のなかで唯一戦死した吉継だが、その際にはどこに布陣していたのだろうか。この問題に取り組んだのが、歴史学者、白峰旬(しらみねじゅん)氏である。
通説によると、大谷吉継は山中(石田三成方軍勢の主力陣営)に布陣していたという。そして、小早川秀秋が松尾山に陣取り、眼下に東西両軍の様子を見下ろしていた。当初、秀秋は東西両軍のいずれに与すべきか迷っていたが、最終的に家康の問鉄砲に恐れ、西軍を寝返って吉継の陣営に攻め込んだという。一説によると、吉継は秀秋の不穏な動きを察知し、警戒していたともいわれる。結局、吉継の軍勢は散々に討ち負かされ、吉継は無念のうちに自害したというのが有名な話だ。
ところで、現在知られている関ヶ原合戦の布陣図は、1892年(明治25年)の神谷道一氏による「関原合戦図志(せきがはらかっせんずし)」が基本となっている。また、その翌年に刊行された参謀本部編「日本戦史 関原役(せきがはらのえき)」もよく使われている。
ただ、いずれも一次資料に基づいて作成されたわけではないので、最近では疑問視されている。
存在しない布陣の一次資料
白峰氏の研究によると、関ヶ原の合戦が展開したのは、「関ヶ原」と「山中」のエリアであったという。9月15日の早朝、家康方の軍勢は、吉継の軍勢に攻撃を仕掛けた。そして、吉継軍は家康と秀秋の軍勢に挟撃され、壊滅的な状態に陥ったという。ここでの戦場は「関ヶ原」エリア(三成方主力陣営を離れ、家康陣営に近い場所)であった。
残念ながら、一次資料によって吉継の布陣場所は特定することができない。しかし、このような戦闘経過を考慮すると、吉継は家康の本陣がある赤坂(岡山の本陣)から関ヶ原エリアに近い関ヶ原エリアに布陣していたと考えられている。関ヶ原合戦の布陣は、単に吉継だけの問題ではなく、ほかの諸大名の布陣についても疑義が提示されており、今後の解明が期待されている。
小早川秀秋の裏切りは計画的なものだった!
【※小早川秀秋】
最後に関ヶ原合戦の勝敗を決定づけたのは、小早川秀秋が西軍から東軍に寝返ったことが要因とされている。
これは事前に徳川方との密約があり、さらに合戦当日になかなか寝返らない秀秋の軍勢に対し、家康が脅しのために鉄砲を射ったという「問鉄砲」の逸話があるが、これも虚構であることが明らかになっている。
実際には、秀秋は徳川方の事前の接触を一度は断り、黒田長政による交渉によってようやく寝がえりを決めたという。このように秀秋が合戦以前に東軍に与していたのは明白である。どうやら土壇場で優柔不断になったというのは違うようだ。
よく知られている関ヶ原合戦の通説も近年の研究によって徐々に変わりつつあるのだ。
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