豊臣秀吉の没後、天下の実権を握った徳川家康は、キリスト教を禁止し、海外との貿易も限定するようになった。
その渦中で家康を見た外国人の目には、どのように映ったのだろうか。
家康に謁見した外国人
【※鷹狩り姿の徳川家康公之像(駿府城本丸跡)】
豊臣秀吉の死去から2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、天下人としての地位を確実なものにしようとしていた。
同年4月、日本に向けて航海していたオランダ船「リーフデ号」が豊後の海岸に漂着する。乗組員110人のうち、生き残ったのはわずか24人だったが、そのなかにいたのが後に「三浦按針(あんじん)」の名で幕府に仕えたウィリアム・アダムスである。
アダムスにはルイス・フロイスの「日本史」のような著作はないが、書簡数葉が残っており、その日本語訳が「異国叢書 慶元(いこくそうしょ けいげん)イギリス書翰(しょかん)」に収められている。同書には、家康に初めて謁見した様子が書かれていた。
『帝(家康)は私の本国のことを尋ねられたので、私はいちいちそれに答えました。その他、各国間の戦争・平和に関して問われましたが、詳細はここに記す必要はないでしょう。かくして私は、同行した下僕の水夫と共に獄に投ぜられましたが、親切な待遇を受けました』
釈放されたアダムスは江戸に招かれ、家康に仕えるようになった。
ウィリアム・アダムスが仕えた家康
【※ウィリアム・アダムス】
家康は日本国内だけでなく、海外情勢にも興味を示していた。ウィリアム・アダムスとの2回目の対面では、カトリックとプロテスタントの対立に端を発した宗教戦争(オランダ独立戦争、ユグノー戦争など)について質問している。
『帝(家康)はスペイン、またはポルトガルと我が国との間における戦争ならびにその理由を尋ねられたので、私がいちいちこれに応答すると、すこぶる満足されたご様子でした』(異国叢書 慶元イギリス書翰)
アダムスを始めとしたイギリス、オランダ、スペインなどの外国人は天皇の存在を認識していなかったため、家康を「帝」「皇帝」と呼んでいたのだ。これは家康が隠居して、駿府城に海外の使節が訪れたときも同じだった。
アダムスの才覚を気に入った家康は、彼を側近として重用する。この頃、家康は貿易を許可する朱印状を与える「朱印状貿易」を展開しており、アダムスは外国使節との折衝や通訳などを任された。また大工の経験を買われて西洋式の帆船建造も命じられた。
大御所政治と外国人
【※隠居した家康が居城とした駿府城】
慶長10年(1605年)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲って大御所となった。だが、政治の実権は手放さず、駿府で大御所政治を展開する。
スペイン商人のアビラ・ヒロンは、家康について次のように述べていた。
『日本の領主たちは、彼らがすでに年老いたり、自分の子供たちが成人になったりしたとき、隠居する習慣がある。これは領主の地位をやめ、剃髪して統治を相続者に委ねることである。しかし、今のこの国の国王(家康)は、この流儀に従うつもりはない。現に王子(秀忠)はすでに35歳を越える大人であるが、依然として国王自ら統治しているからである』(日本王国記)
来日した外国人たちは、家康が隠居したとは思っていなかった。そのため、江戸だけでなく、駿府にもオランダやイギリス、スペインなどの外交使節が訪れ、家康のご機嫌伺いをしていた。
ドン・ロドリゴ日本見聞録
ウィリアム・アダムスが建造した西洋式帆船は、フィリピン臨時総督の任を解かれてメキシコへ帰還するロドリゴ・デ・ビベロに貸し出された。
彼はマニラからメキシコに向かう途中に船が難破し、日本に漂着して1年余り過ごしているが、その間の滞在記録が『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今も残っている。そして、同書には家康の容貌に関する記述もあった。
『彼(家康)は60歳(実際は66歳)の中背の老人で、太子(秀忠)のように色黒ではなく、彼より肥満していた』
というものだ。さらに、事前の打ち合わせで、ビベロは「握手をしてはいけない」「手に接吻をしてはいけない」といわれていた。そのため、起立して敬礼したが、それを見た家康は笑みを浮かべ、手を挙げて着座の合図をしたという。
三浦按針としてのアダムス
【※静岡県伊東市にある三浦安針像。アダムスはここで洋式帆船を建造した】
滞在日誌でいえば、国書を携えて来日したイギリスの東インド会社艦隊司令官のジョン・セーリスが書いた『日本航海記』も有名である。彼の自筆本は、国の重要文化財に指定されている。
同じイギリス人であるアダムスが交渉役を担ったが、セーリスには、何事にも日本流を求めるアダムスを快く思ってなかったようだ。
慶長18年(1613年)、セーリスは駿府城にて家康と対面する。自国に有利な条件で貿易を締結するのが目的だったが、家康の対応はいたって事務的だった。だが、最終的には交易の許可を得てイギリスへと帰国している。このとき、アダムスにも帰国の許可が下りていたが、彼もセーリスを「生意気で無礼な青二才」と嫌っていたことから帰国を見送ったという。
その後、家康という最大の後ろ盾が亡くなると、その立場は不遇のものとなり、元和6年(1620年)に平戸でなくなった。
アダムスは三浦按針(あんじん)として、夫婦共々、神奈川県横須賀市の墓に眠っている。京急本線の按針塚駅は「按針」にちなんで付けられた。
最後に
アダムスが見た日本は、まさに新時代の幕開けの時であった。江戸時代初頭を家康と共に生きた半生といえるだろう。
帰国を諦めつつあった慶長7年(1602年)には日本人女性を娶り、子孫を残している。そして、彼がいなければ海外との交渉が難航したことは間違いない。
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