島津斉彬(なりあきら)の薫陶を受けて西郷隆盛は成長した。その斉彬の命を受け国事に奔走する西郷。
しかし、充実した日々は斉彬の急死により終わりを告げる。その後に待っていたのは、大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)による尊王攘夷派に対する過酷な弾圧であった。
一橋派への弾圧
安政4年(1857年)6月17日、島津斉彬ら外様大名や朝廷、市井からも意見を募り、国難に当たっていた老中首座の阿倍正弘が死去。阿倍は、当主就任に際しても斉彬を支持する大切な存在だった。斉彬は阿倍や宇和島の伊達宗城(むねなり)、福井の松平慶永らとともに、14代将軍には国難に対処できる水戸の徳川斉昭の子、一橋慶喜(よしのぶ)を推していた。
ところが翌安政5年、阿倍の死後に大老に就任した井伊直弼は、6月に斉彬らが時期尚早と考えていた日米修好通商条約を調印。さらに幼少の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を次期将軍と定めてしまう。これに抗議した徳川斉昭、松平慶永、尾張の徳川慶勝らは、勝手に登城したことを咎められ、謹慎や隠居処分となった。
西郷は6月に鹿児島に帰った際、斉彬に松平慶永(松平春嶽)から預かった江戸や京都情勢を記した書簡をもたらしている。
島津斉彬、突然の死
こうした事態に憂慮した斉彬は、薩摩の兵を率いて上洛し、朝廷を動かして慶喜の将軍就任の勅許を得ることを考えた。そして西郷には、この計画を実行するために上洛の準備を進めさせていたのである。西郷はすぐさま上京し、梁川星厳(やながわせいがん)や春日潜庵(かずがせいあん)らと情報交換をしている。
梁川は漢詩人だが、日本各地を遊歴した過去があり、春日も安政4年ころから国事に奔走し、梁川や西郷らと親交を結んでいた。
一方、斉彬は7月8日に鹿児島城下の天保山で大々的な軍事訓練を閲兵する。ところがその直後に発病し、16日には急死してしまうのだ。その死因は一般的にはコレラだと伝えられているが、暗殺説もある。いずれにせよ、これにより全ての計画は水泡に帰してしまう。大いに落胆した西郷は、殉死を考えた。
だが、清水寺成就院の住職である月照(げっしょう)に諭され思いとどまった。
安政の大獄
慶喜擁立を諦めきれない水戸藩士は、朝廷に働きかけ孝明天皇からの密勅を手に入れた。しかし、井伊直弼はすぐさま水戸藩に返上を迫り、この運動に関わった人物を次々に捕らえ断罪する。
橋本左内や吉田松陰といった知識人をはじめ、多くの志士や藩主に至るまで、その数は百人をゆうに超えている。この「安政の大獄」と呼ばれた弾圧に列藩は震撼した。勤王派の僧として知られた月照も、幕府から追われる身となっていた。
西郷は薩摩で保護しようと考えたのだが、薩摩の藩政は斉彬の父、斉興が実権を握り、復古的な政策に変っていた。月照を保護しようという気配はまるで感じられなかったのだ。
結局、藩は月照の追放を決め、西郷に日向へ送るよう命じた。これは「永送り」を意味し、要するに暗殺せよ、ということだ。恩人である月照を手にかけることなどできない西郷は、月照を保護して連れてきた福岡藩の平野国臣の目を盗み、共に錦江湾(鹿児島湾)に身を投じる。
平穏な島での暮らし
西郷と月照が錦江湾に身を投げたのは11月16日未明のことだった。今の暦では12月という真冬である。
2人は平野国臣らに引き揚げられ、懸命な蘇生処置が施されたが、息を吹き返したのは西郷のみであった。薩摩藩は西郷を死んだものとし、幕府の遣いには西郷と月照の墓を見せている。遣いは一応納得して引き上げたが、安心できない藩は西郷の職を免じ、奄美大島に潜ませることにした。
菊池源吾と改名した西郷は、安政5年(1858年)12月末に鹿児島を発ち、翌年1月12日に潜伏先の奄美大島龍郷(たつごう)村に到着した。このときは流刑ではないので、6石(後に12石)の扶持米と住居が支給されている。
島での暮らしは当初こそ自炊であったが、後に島の実力者である龍家の一族、佐栄志の娘「愛加那(あいかな)」を島妻に迎えた。2人の仲はとてもよく、万延2年(1861年)1月には長男の菊次郎が誕生する。西郷もこの暮らしを気に入るようになり、住居を新築していた。
西郷の復帰
だが、時勢は西郷の思惑通りにはいかなかった。安政6年(1859年)に藩政を牛耳っていた斉興が死去。
藩の実権は藩主・忠義の父で斉彬の異母弟である島津久光が握り、国父と称した。文久元年(1861年)10月になると、久光は公武合体の周旋に乗り出すことを決意する。だが、久光は中央政界とのつながりが希薄であった。
そこでその頃、久光の側近くに仕えていた大久保利通が西郷を島から呼び戻すことを進言する。西郷を嫌っていた久光はこれに渋々応じたのだった。
文久2年(1862年)2月、帰還した西郷は大久保から久光の出府計画を聞かされた。それに危機感を覚えた西郷は、久光に目通りが許されるとすぐ、久光を質問攻めにしたうえ、無官で斉彬ほどの人望が無いのを理由に上京すべきでないと主張する。挙句の果てに「地ゴロ=田舎者」呼ばわりし、同行を断った。だが、大久保の説得で上京に応じ、久光から下関で待機する命を受け、3月に鹿児島を後にした。
しかし下関に着くと京・大阪の緊迫した情勢が伝わってきたため、久光の命を違えて京都に先行してしまうのであった。
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