討幕を成し遂げ、日本を新たな時代に導いた西郷隆盛は政府の要人となった。版籍奉還、廃藩置県など西郷はひとつとして異論を唱えなかった。
そして、欧米使節団の派遣についても意見を挟んでいない。西郷の脳裏には、ただただ内政重視の思いがあったのだろう。
岩倉使節団
明治4年(1871年)、廃藩置県を成功させた4ヵ月後の11月12日、政府首脳が大挙して海外へ出掛ける使節団が欧米に向けて出発した。
特命全権大使を右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)が務め、副史として木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文などで組織した総勢48名の遣外使節団、通称「岩倉使節団」である。
しかし、太政官政府が全権を掌握したばかりの重要な時期のことだった。太政官政府とは、内閣制度が成立するまでの明治新政府の制度である。この時、各国首脳への表敬訪問や幕府が結んだ不平等条約の改正への打診などが目的で、もっとも重要な条約改正の本交渉の権限は持っていなかった。政府内では反対するものが後を絶たず、太政大臣・三条実朝(さねとも)も実力者である大久保と木戸の外遊に難色を示したが、押し切られてしまう。
当初、使節団は大隈重信を中心とした小規模なものだった。しかし、大久保はぜひとも海外を見て歩き、今後の日本の方向性を決める指針としたかったのだ。
大久保の信頼
その一方で大久保は、大隈が条約改正の主役となることに不信感を抱き、自分の留守中に木戸ら長州勢の発言力が伸びるのも防ぎたかった。そこで、大隈使節団案を潰し、木戸を海外に同行させることで長州勢の頭を押さえようとしたのである。そして、その留守を西郷に任せた。大久保も西郷になら安心して政府を預けられる。西郷なら大久保の勢力を支えてくれると思ったからで、西郷もまた大久保の下心を知りつつ快諾した。
岩倉使節団がサンフランシスコに上陸したのは明治4年(1871年)12月6日。大陸横断鉄道でワシントンに到着後、条約改正に向けた交渉を始めようとしたが、アメリカ政府は取り合わない。以後、ヨーロッパ諸国歴訪も合わせ、もっぱら視察に重点が置かれた。
約2年の年月と莫大な国費を使った使節団の功績は、先進諸国の政治や経済、社会、文化などを見て回った体験だけが残った。
留守政府の大規模改革
岩倉使節団がアメリカで挫折を経験している時、西郷を中心とする留守政府はどのような動きをしていたのだろう。使節団と留守政府の間には「なるべく新しい改正をおこなわない」「新規の省官長欠員の補充や管理の増員を行わない」など、12ヵ条の約束が結ばれていた。
となると、留守政府が行えるのは廃藩置県の残務処理ということになるのだが、留守政府はその約束を守らず、すでに準備が進められていた改革を次々と推し進めていった。
まず、明治5年(1872年)8月、フランスの制度をもとにアメリカの教育思想を加味した学制の公布を行っている。教育における四民平等を説き、男女の別なく国民のすべてが教育を受けることと規定した。この年、徴兵の詔が出され、翌年には徴兵制も発布されている。これにより、20歳の男子には徴兵検査を受けた上での3年間の兵役が義務付けられる。
さらに地租改正を発布し、大規模な租税と土地制度の改革も行っている。地価を決め、所有者に地券を発行し、全国一律で地価の3%を地租と定め、納付を義務付けた。
西郷使節と征韓論
ただし、それらの新しい改正を推進したのは解明的な官僚たちで、西郷はほとんど関与していないが承認したのも事実だ。例えば徴兵制をもっとも強く主張したのは陸軍大輔の山縣有朋(やまがたありとも)である。しかし、名目上は参議の役職にあり、軍部の最高指導者だった西郷の責任において採用された。実は、西郷は徴兵制に反対の考えだったという。それでもあえて異議を唱えなかったのは、山縣の近代的な軍政に反論するだけの理論を持っていなかったからともいわれている。
ところが明治6年(1873年)に入ると厄介な問題が持ち上がった。朝鮮の大日本公館に搬入されようとした生活物資が妨害され、門前に日本を無法の国と非難する看板が出されたのである。これに怒った政府高官のなかには朝鮮を攻めるべきだとする征韓論が起こり始める。
西郷は相手を刺激するだけだと反対し、自ら使節として乗り込むことを主張した。当時、日本と朝鮮には国交がなく、結ぶきっかけとなる可能性もある。西郷使節は岩倉使節団の帰国を待って正式に発表されるところまで詰められたが、帰国した大久保や岩倉は猛反対した。
使節派遣は戦争に直結する可能性があったからだが、これが征韓論争へと発展していく。
征韓論は西郷主導か?
朝鮮に国交を開くよう求める一方、国内にくすぶる士族の不満を逸らすため出兵するというのが征韓論の論旨で、西郷はその主導格といわれている。
しかし、西郷は自らが全権大使として朝鮮へと赴き、国交の回復交渉にあたると言っているが、軍事力に訴えるとは一言も言っていない。むしろ西郷は主戦派を抑えていたと見るべきで、西郷が征韓論の急先鋒といわれるようになったのは征韓論が起こった何年もあとのことなのだ。
西郷の使節派遣を三条実美は認めていた。政府内での立場が危うくなっていた大久保や岩倉らは征韓論にいったん敗れ、大久保は辞表を出している。そこに実美が病気で倒れるという思わぬ事が起こった。太政大臣代理に就いたのは岩倉具視。岩倉は大久保を抱き込み、西郷使節の中止を図ったのではないかと見る向きがある。かくして西郷派遣策は却下され、西郷は辞職することになる。
やがて、野に下った西郷は西南戦争という大きな渦に巻き込まれてゆくことになるのだ。
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