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「金栗四三」不滅の記録~54年8か月6日5時間32分20秒3~
「マラソンの父」と呼ばれる伝説のランナー「金栗四三」(かなくりしそう)
彼が駈けた「1912年第5回ストックホルムオリンピック」決して平坦な道のりではなかった。
金栗は東京高等師範学校に入学。全校生徒の参加する長距離走で3位になる。幼き頃から走る事が大好きだった金栗に在学中の1911年(明治44年)に転機が訪れる。羽田競技場でオリンピックに向けた国内予選会が開催されるというのである。日本のオリンピック参加は、近代オリンピックの父:クーベルタンに、柔道の創始者である嘉納治五郎が依頼されたものだった。
その種目の中にマラソン(25マイル走)があった。金栗はそれまで予選会の存在を知る訳もなく、マラソンを走った事もなかった。金栗は自信のある長距離走に挑むべく練習に励む様になった。そして当日、金栗は後続を大きく離し、一位でゴールした。
今まで経験した事のない長距離走に、普通の足袋を履いて挑んだ金栗は、ゴール後には、足袋が擦り切れ、その後一カ月は普通に歩く事すらできない程だった。この時の記録は二時間三十二分四十五秒。金栗だけでなく、1~3位までの選手達が、1908年のロンドン大会での優勝者の記録を上回る快記録を出した。
しかし「ロンドン大会」の距離は26・22マイルと長く、予選会で行われたのは25マイル・・嘉納は世界との差を見抜いていたとも言われている。
わずか4名で過酷な出発「北欧ストックホルムへ」
金栗はこの記録とこれまでの実績が考慮され、日本代表に選ばれた。
様々な陸上競技予選も行われていたが、日本にとっては初めてのオリンピックであり、経費も必要な為、参加者は金栗四三と三島弥彦、この二名となる。
そして日本選手団団長:嘉納治五郎と、大森兵蔵監督の計4名の困難な長旅へと出発するのだった。
当時のストックホルムまでの道のりは、福井県・敦賀から船でウラジオストックへ渡り、そこから更にシベリア鉄道と船でを乗り継ぎ、二週間かけて向かう長旅だった。シベリア鉄道では、パンと持参した缶詰のおかずで食いつなぐ生活を10日間程、送った。その結果、移動により疲労が貯まり、到着後も数日間練習のできる状況ではなかった。
当時のアメリカ選手団が、練習場所を確保されたフェリーで大西洋を横断しストックホルム入りしたのとは、雲泥の差であった。
また当時は設備の整った「選手村」などなく、事務所の用意した宿舎は外国人ばかりで、これでは疲れがとれないだろうと、安価な素人下宿に宿泊するなど、苦難の連続であった。
「消えた日本人ランナー」として・・金栗四三
苦難の中「第5回ストックホルムオリンピック」の開会式。堂々とプラカードを持ち歩く金栗の姿があった。
出場選手二名・関係者二名・・計4名という淋しい行進であった。
いよいよ始まったマラソン。炎天下の中走る金栗は折り返し地点でを廻った所で棄権。
沿道の家庭でもてなしを受け休憩し、戻ったのはレース翌日だった。
大会事務局は、レースが完全に終わったと思い込み、慰労賞として最終走者に与えられる「木製のさじ」は、金栗の前にゴールしたロシア選手に贈り済みだったが、慌てて金栗に「さじ」を与え直すという一幕もあったほどであり、翌日になってからの申告は、大会記録から完全に忘れ去られ「消息不明」として記録され続けてしまうのだった。
この結果、西洋との力の差を思い知った金栗は、次のオリンピックへと意欲を燃やすが、1916年(大正5年)のベルリンオリンピックは第一次世界大戦により中止、1920年のアントワープ大会は16位に終わり、1924年のパリ大会は途中棄権という結果だった。
金栗四三「陸上界での貢献」
1、金栗足袋の開発
ストックホルムでの敗因は、疲労が貯まった事が原因ではないか?と考えた金栗は「足袋」を改良し、ゴム底にした「金栗足袋」を普及させた。
1936年(昭和11年)ベルリン大会のマラソンに出場した「孫基禎(ソンキジョン)」
1951年(昭和26年)ボストン大会「田中茂樹」は、この足袋で優勝した。
2、「東京箱根間往復横断駅伝」の創設者として。
1919年(大正8年)小学校の運動会に審判として招かれた金栗は、海外で長距離走に挑戦する事をおもいつき「第一回東京箱根間往復大学駅伝競争」が始まった。最優秀選手には、「金栗四三杯」が贈られている。
3、後の「福岡国際マラソン」も。
戦後直後の1947年(昭和22年)故郷の熊本で自身の名を冠した「金栗賞朝日マラソン」➡後の福岡国際マラソンへと発展していく。
不滅の記録達成「世界一遅い記録」
ストックホルム大会から55年後の1967年。「消えたランナー」金栗は思わぬ形で世界から注目される事になった。
ストックホルム大会から「55周年記念式典」にあたり事務局が当時の大会について調査していた所、途中棄権していたはずの金栗の記録が「競技中に失踪し行方不明」となっていた事に気づく。そこでスウェーデンオリンピック委員会は金栗をストックホルムオリンピック55周年記念祭に招待する事にしたのである。
1967年(昭和42年)3月21日、金栗はトラックの最後のカーブからホームストレッチにかけ颯爽とした姿で走り、ゴールのテープを切った。
その記録「54年8か月6日5時間32分20秒3」
このゴールをもって、ストックホルム大会の全日程が終了した。
「長い道のりでした。その間に孫が5人できました」・・金栗四三のこの記録は破られる事はないだろう。
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「オリンピック」と歴史的背景
1912年 | 第5回ストックホルム大会開催
日本が初めて参加(選手2名・役員2名)メダルなし。 |
1914年 | 第一次世界大戦勃発 |
1920年 | 第7回アントワープ大会
参加選手15名:金0・銀2・銅0 テニス:熊谷一弥・・シングル(銀) 熊谷一弥・柏谷誠一郎・・ダブルス(銀) |
1923年 | 関東大震災起こる |
1924年 | 第8回パリ大会
参加選手19名:金0・銀0・銅1 レスリング:内藤克哉/フェザー級(銅) |
1928年 | 第9回アルステルダム大会
参加選手43名:金2・銀2・銅1 陸上:織田幹雄・・三段跳び(金) 人見絹枝・・800m(銀) 水泳:鶴田義行・・200m平泳ぎ(金) 米山弘・佐田徳平・新井信夫・高石勝男・・800mリレー(銀) 高石勝男・・100m自由形(銅) |
1929年 | 世界恐慌 |
1931年 | 満州事変 |
1932年 | 第10回ロサンゼルス大会
参加選手131名:金7・銀7・銅4 陸上:南部忠平・・三段跳び(金)走り幅跳び(銅) 西田修平・・棒高跳び(銀) 大島鎌吉・・三段跳び(銅) 水泳:宮崎康二・・100m自由形(金) 北村久寿雄・1500m自由形(金) 鶴田義行・・200m平泳ぎ(金) 清川正二・・100m背泳ぎ(金) 宮崎康二・遊佐正憲・横山隆志・豊田久吉・800mリレー(金) 水泳:河合達吾・・100m自由形(銀) 牧野正蔵・1500m自由形(銀) 小池禮三・・200m平泳ぎ(銀) 入江稔夫・・200m平泳ぎ(銀) 前畑秀子・・200m平泳ぎ(銀) 大横田勉・・400m自由形(銅) 河津憲太郎・100m背泳ぎ(銅) 馬術:西 竹一・・大障害(金) ホッケー:男子代表(銀) |
1933年 | ヒトラー、ナチス独裁政権確立
日本、国際連盟脱退 |
1936年 | 二・二六事件
第12回東京大会開催決定 |
1937年 | 日中戦争勃発(~45年) |
1938年 | 日本・東京大会返上
国家総動員法提出 |
1939年 | 第二次世界大戦勃発(~45年) |
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