ジュストの名を持つキリシタン
高山右近(たかやまうこん)は、キリシタン大名としてその名を知られた武将です。
徳川幕府のキリシタン国外追放令に対して、信仰に殉じるためあえてその処分を受け入れる道を選んだとされています。
右近がキリシタンとなったのは11歳の永禄6年(1563年)と伝えられており、父である高山友照がその教えに教化されたことで、家族全員で洗礼を受けたとされています。
右近はこのときに「ジュスト」という洗礼名を授かっています。その人望故に右近の影響でキリシタンとなった人たちも多く存在したと言われています。
一説には、蒲生氏郷や黒田孝高(官兵衛)、細川忠興の妻・細川ガラシャなどがそうであったとされています。
右近は、千利休の高弟として利休七哲の一人にも数えられる茶人でもあり、武人、キリシタンの3つの顔のうち、最終的にはキリシタンであることを選んだのでした。
高山右近 の生い立ち
右近は天文22年(1553年)に当時近畿を支配下に置いていた三好長慶の臣、松永久秀に仕えた父・友照の嫡男として生まれたとされています。
三好氏は長慶が永禄7年(1564年)に病死すると、三好義継が家督を継ぎ、これを松永久秀と三好三人衆である三好長逸、三好政康、岩成友通が支える体制を敷きました。
翌永禄8年(1565年)に松永久秀がときの室町将軍・足利義輝を暗殺したことから三好氏の内部で主導権争いが発生し、以後三好氏の勢力は急激に衰退していくことになりました。
続く永禄9年(1568年)織田信長が足利義昭を将軍に据えて上洛を果たすと、久秀は信長に降伏しました。
右近の父・友照もそれに従い織田家に臣従し、この後右近父子は織田氏の和田惟政、荒木村重に仕えて摂津の高槻城を拝領しました。
豊臣政権下で大名へ
天正6年(1578年)に村重が信長に反旗を翻すと父・友照はこれに従いましたが、右近は織田方に与し、織田方が勝利を得たことで、右近は再び摂津高槻城を拝領しました。
その後、信長が本能寺の変に倒れると右近はいち早く豊臣秀吉に従います。
天正10年(1582年)の光秀との山崎の戦いでは先鋒を務めて勝利に貢献、これを皮切りに天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国征伐、天正14から15年(1586から87年)の九州征伐などに従軍しました。
これらの豊臣への貢献から、天正13年(1585年)には秀吉から播磨国明石に6万石を与えられ、大名に列せらることになりました。
前田家の庇護
しかし程なくして秀吉によってバテレン追放令が発布されます。
多くのキリシタン武将・大名が保身のため信仰を捨て・棄教する中で、右近はキリスト教を選びます。領地も大名の立場も捨てて流浪の浪人となる道を選んだのです。
当初同じく元キリシタンであった小西行長の元へ身を寄せていたいた右近は、天正16年(1588年)に前田利家に請われその領国である加賀に赴き、その地で1万5,000石を与えられて客将として迎えられたと言われています。
こうして右近は、豊臣政権から追放処分を受けた身でありながら、天正18年(1590年)の小田原征伐にも前田家の客将の立場で参陣したとも伝えられています。
終焉の地マニラ
徳川の世となっていた慶長19年(1614年)、それまで加賀・前田家にあった右近に対し、徳川家康によるキリシタン国外追放令が出されました。
右近はこの命に従って加賀を離れ、長崎から家族と共に追放先のフィリピン・マニラへと移されました。
右近はマニラでは、権力者に対しても信仰を捨てずに貫いた人物として歓迎を受けました。しかし着いた翌年の慶長19年(1615年)には息を引き取りました。
享年63、彼の地着いて、わずか40日後のことでした。
過酷な船旅での疲れや、慣れない気候などによって、老齢に差し掛かっていた右近は病に蝕まれたと言われています。
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