安土桃山時代

黒田官兵衛(孝高)が織田家の家臣となるまで

多数くの逸話

黒田孝高(勘兵衛)織田家の家臣となるまで

※画名「如水居士像」

黒田孝高(くろだよしたか)は豊臣秀吉の軍師として、官兵衛の名で知られている武将・大名です。

しかし当初から秀吉に家臣として仕えていた訳ではなく、元は当時播磨国姫路を治めていた播磨御着城主・小寺政職に仕えていました。

孝高は父・職隆の代から小寺氏に仕えて、小寺家の家老まで務めた人物でした。
後に秀吉の軍師として名を馳せる孝高は、秀吉に付き従った過程・戦いにおいて余多の逸話が残されています。

例えば、中国攻めに侵攻してきた秀吉に対し自身の居城・姫路城を提供した件、清水宗治の籠城する備中高松城の水攻めを献策したとされる件、明智光秀との山崎の合戦のため、秀吉勢の中国大返しを成功させた件など、枚挙に暇がないほどです。ここでは孝高の小寺家時代を調べてみました。

小寺官兵衛

孝高は、天文15年(1546年)に父・職隆の嫡男として播磨国姫路で生まれました。

織田信長が天文3年(1534年)、秀吉が天文6年(1537年)生まれですので、信長とは一回りほど若いことになります。
孝高は父・職隆と同じく政職に仕え、最初は近習として永禄4年(1561年)齢15のときに出仕しました。

翌永禄5年(1562年)には父・職隆と共に土豪の征伐で初陣を飾り、同年から「小寺官兵衛」を名乗ったとされています。

孝高は、永禄10年(1567年)頃に父・職隆から家督と家老職を継いで、主君・政職の縁戚にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室として、姫路城代を務めました。

因みに翌永禄11年(1568年)に嫡子・松寿丸(後の長政)が生まれています。

青山・土器山の戦い

孝高は、永禄12年(1569年)に居城・姫路城を赤松政秀から攻められることになりました。

正秀は信長側に与した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受けて、兵3000を以て侵攻してきました。
この頃の姫路城は小城であり、且つ防御にも適さない城でした。加えて小寺家の兵力は主君・政職の置塩城にあり、姫路城には僅かな手勢しかいない状態でした。

しかし孝高はここで籠城しつつ、隙を衝いて赤松勢に奇襲を仕掛け、わずか300余りの手勢で2度に渡って敵を退けました。しかし政秀は、その1ヵ月後に再び3000の兵を率いて侵攻してきました。このときも孝高は、僅かな手勢の中から精鋭150人を選んで野戦を挑みました。

孝高は、母里小兵衛井出友氏らの重臣を討ち取られて窮地を迎えましたが、援軍の英賀城主・三木通秋ら後詰が到着すると果敢に打って出て政秀勢に奇襲を敢行しました。

政秀勢は既に孝高らに反撃の余力はないと油断していたことから、不意を突かれて敗走しました。

孝高が政秀勢を辛くも撃退したこの戦いは「青山・土器山の戦い」と呼ばれています。

織田家への臣従

元亀4年(1573年)頃には、孝高ら小寺氏を含む播磨の国人らは、畿内の新興勢力である信長か、中国地方を制した毛利のいずれに与するかの決断を迫られました。

孝高は、天正3年(1575年)長篠の戦いで武田氏を破った信長に分があるとみて主君・政職にその旨を進言します。

同年7月に秀吉を介して岐阜城で信長に謁見した孝高は、このとき信長から名刀「圧切長谷部」を授与されています。

孝高は、翌年には政職をはじめ、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治ら播磨の国人領主を京で信長に謁見させ、臣従させました。

英賀合戦

天正4年(1576年)2月、信長によって京を追われた室町将軍・足利義昭が毛利を頼って落ち延びると、義昭を擁した毛利は、同年7月に第一次木津川口の戦いで織田の水軍に勝利を収め、包囲されていた本願寺顕如に兵糧・弾薬を届けることに成功しました。

翌天正5年(1577年)5月には同じく毛利水軍5000の兵が海路から姫路に侵攻してきました。

英賀に上陸した毛利勢に対し、孝高は付近の山に大量の軍旗を持たせた農民を配して織田の援軍を装う計略を用いました。

その上で手勢500の兵で奇襲を行い、10倍の数の毛利勢を退却させたと言われ、戦いは英賀合戦と呼ばれています。

こうして孝高は、毛利と織田の争いにおいて、緒戦の木津川での敗北を覆す勝利をもたらしたのでした。因みにこの戦いの後に長男・長政は人質として信長の元へ送られています。

幽閉と水攻め

天正5年(1577年)10月に織田の中国地方方面軍として秀吉が播磨へと入りました。

※姫路城

孝高はこのとき居城・姫路城を秀吉に提供したとされています。

翌天正6年(1578年)3月、別所長治が突如織田に反旗を翻すと、これに乗じて毛利・宇喜多勢が阿閉城へと侵攻、これを孝高は辛くも防ぎます。しかし同年7月に信長の命令により秀吉本体が上月城を放棄したことで、それまで対毛利に支援していた尼子勝久山中幸盛らの尼子勢を見殺しにする結果とになりました。

更に同年、摂津の荒木村重が織田氏に謀反を起こしたため、孝高は村重の説得に有岡状に赴きました。

しかしそこで囚われることになり、翌年救出されるまでの間、幽閉されました。

この時信長は孝高も裏切ったものと見做して、人質の長政を殺すよう指示しました。しかしその指示は竹中半兵衛の機転で実行されず、長政は無事だったとされています。

有岡状の幽閉から解放された後の孝高は、秀吉と共に天正8年(1580年)に三木城、翌天正9年(1581年)に鳥取城を陥落させました。

孝高は続く天正10年(1582年)には、清水宗治が守る備中高松城への水攻めを献策したとされています。

 

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社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
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