森鴎外 本業は軍医
森鴎外(もりおうがい)と言えば多くの日本人は明治の文豪をイメージされるのではないでしょうか?
代表作「舞姫」や「山椒大夫」は国語や日本史でも紹介されてる作品であり、実際に読んだ方も多いのではないかと思います。
そうした、有名作家として夏目漱石と並び称される人物でありつつ、実は鴎外の本業は軍人でした。
軍人と言っても医者であり正確には軍医なのですが、鴎外は軍医においても組織の頂点であった陸軍省医務局長を務めた人物でした。
幼少時より秀でた才
鴎外は本名を森林太郎(もりりんたろう)といい、1862年に石見(現・島根県)の津和野藩の典医を務める家の嫡男として生まれました。
幼少時から中国の古典やオランダ語を学ぶと、非凡な才をみせて巷説では9歳のときに既に15歳にも等しい程の成績を残したとされています。
鴎外は1873年(明治6年)に第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科を実年齢を2歳多く申告して、実は12歳にして受験し合格、見事入学を果たしました。
既にこの頃には和歌の作成を行うなど、後年の文筆の創作についても、その片鱗を覗かせていたと伝えられています。
ドイツへの留学
1881年(明治14年)に19歳で本科を卒業した鴎外は、同年には陸軍軍医副(中尉相当)となって東京陸軍病院に勤務しました。
鴎外のその後の人生に大きな影響を与えたのが、1884年(明治17年)に命じられたドイツへの留学でした。同年7月にドイツに渡った鴎外は、1888年(明治21年)7月までの4年間を彼の地で過ごし、ライプツィヒ、ミュンヘン、ベルリンなどで最先端の医学を学びました。
この留学の後、日本へ戻った鴎外は、陸軍軍医学舎の教官を任じられ、陸軍大学校教官も兼務することになりました。
戦争への従軍
鴎外は894年(明治27年)に発生した日清戦争に際しては、東京を離れて現地に赴いています。
その後、日清戦争が終結すると清から下関条約で獲得し日本の領土となった台湾へと渡りました。
台湾には約4ケ月の間滞在し、任務を終えて東京へと戻りました。
鴎外は、1899年(明治32年)には軍医監(少将に相当)に任じられ、北九州・小倉(西部)に置かれていた第12師団の軍医部長に就任しました。
続く1902年(明治35年)には第1師団の軍医部長となり東京へと戻りました。
続く1904年(明治37年)2月には、日露戦争に従軍し1906年(明治39年)1月まで第2軍軍医部長を現地で務めています。
更に翌1907年(明治40年)10月には、ついに陸軍軍医総監(中将に相当)へと昇進し陸軍省医務局長という軍医の頂点である役職に就きました。
脚気を巡る立場
鴎外は、1916年(大正5年)4月まで約8年半にわたって陸軍省医務局長を勤めた後、予備役へと編入されて、現役軍人としての生活を終えました。
鴎外の軍医時代の行動として。しばしば批判の対象となったものが、軍が兵士に供する食事における麦飯の禁止があります。
当時軍でも猛威を振るった脚気(かっけ)の防止のため、一部から推奨されていた麦飯について、鴎外が科学的な根拠が乏しいと判断し、麦飯を禁じる通達を出したことに対する後年の批判がそれです。
鴎外が脚気の原因について、当時の医学界で広く唱えられた伝染病説を支持していたことから、結果的には正しかった麦飯を禁止したことは事実です。
しかし麦は当時から国内で自給できていない作物であり、それを軍における兵の常食として採用することはそもそも厳しかったとも言われています。
鴎外は退官した6年後の1922年(大正11年)7月、腎萎縮と肺結核にて満60歳で死去しました。
森鴎外は文豪として知られていますが、本業の軍医としても頂点を極めた才人でした。
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