畿内の覇者
三好長慶(みよしながよし)は、戦国大名として織田信長に先んじて畿内を制し、最盛期にはその支配地域は、山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨に及んだとされており、面積では関東の
北条氏に匹敵したと言われています。
もちろん関東よりも京を含む畿内の方が人口や経済的、文化的にも重要な地域に当たり、ほぼ天下人といえる勢力・権勢を誇ったものと考えられています。
そこまで上り詰めた三好長慶について調べてみました。
父の死
長慶は大永2年(1522年)に細川晴元の重臣だった三好元長の嫡男として生まれました。信長が天文3年(1534年)の生まれですので、一回り前の生まれと言えます。
長慶が9歳 の時、父・元長は一向一揆勢によって殺害されてしまいます。これは元長の勢力拡大を恐れた主君・晴元の策略だったとも伝えられています。
長慶は母親らとともに淡路島へと逃れましたが、天文2年(1533年)にわずか12歳にして一向一揆勢と晴元との間の和睦を周旋したと伝えられています。
兵を率いた上洛
長慶は17歳の天文8年(1539年)、主君・晴元を酒宴に招いた際に、かつて父・元長が任じられていた室町幕府の河内十七箇所の代官を自らに授けるように要求しました。
晴元がこれを了承しないため、長慶は幕府にその旨を訴えましたが、同職は同族にして敵の三好政長が任命されており、聞き入れられませんでした。
長慶は、翌年には2,500の兵をを率いて上洛し、同時に石山本願寺の後援を得たとされています。
将軍・足利義晴は畠山義総や武田元光などに出兵を命じ、方や六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた調停を続けましたが、京の治安が悪化したことで長慶に治安維持を命じました。
摂津の掌握
長慶と政長の対立は続きましたが、長慶は六角・武田らの大名と敵対する事態を避けようと一旦和睦し、摂津から兵を引きました。
当初の要求であった十七箇所の代官職は得られないまま、摂津越水城へと入城することになりました。
それまでの三好氏は阿波を本拠地としており、畿内で優位に立てない場合には四国へ戻って再起を図る傾向にありましたが、長慶は以後、阿波に戻ることはなく摂津を本拠地として後に摂津守護代となって幕府へ出仕しました。
長慶は室町将軍の直臣ではないにも関わらず摂津・河内・北陸・近江の勢力を糾合して上洛させるなど、主君・晴元を脅かす存在となって行きました。
畿内の支配
長慶は翌天文15年(1546年)には、晴元の命に従って堺において将軍・足利義晴、遊佐長教、畠山政国、細川氏綱らと戦いました。
ここで一時は追い詰められて撤退したものの、四国から三好実体、安宅冬康、十河一存の弟らが加わったことで盛り返すと、足利義晴を近江に退けて将軍職を足利義輝に禅譲させることに成功し、摂津の奪還も果たしました。
長慶は、天文17年(1548年)に父・元長の旧領にあたる河内十七箇所を手中にする機を得ます。
三好政長に対する討伐の許しが下りなかったことで、晴元の傘下から離れた長慶は細川氏綱に与して遊佐長教と結び、ついに細川晴元、三好政長と対決することになりました。
長慶は、江口城の戦いに勝利して父・元長の仇であった三好政長を討つと、河内十七箇所を奪還して摂津を平定しました。
これにより細川晴元の支配体制が倒れ、細川晴元、三好政勝、将軍・足利義輝が近江へと落ち延びたことで、長慶が事実上の畿内支配を担うことになりました。
三好家の滅亡
その後、三好家は相次ぐ中心人物たちの死によって急速に衰退していくことになりました。
先ず永禄4年(1561年)に弟の十河一存が死亡、翌年には三好実休が討死し、更に翌年には長慶の嫡男の義興が病死しました。
さらには、家臣であった松永秀久の讒言によって弟の安宅冬康を謀殺すると、永禄7年(1564年)には、長慶自身も享年43歳で病死しました。
三好長慶は才能に溢れ、強大な経済力、軍事力を得て信長に先んじて畿内を支配し三好政権を樹立しましたが、敵に対してはむやみに殺したり追い詰めたりせず、寛大な性格だったようです。キリスト教についても理解を示し、キリシタンを庇護するなど新しいものにも柔軟な対応を見せました。
三好家ではその後、嗣子となった義継が跡を継ぎましたが台頭した信長に滅ぼされました。
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