北方領土問題
2018年11月、ここへ来てにわかに慌ただしい動き・報道が行われるようになったのが北方領土です。
ロシアのプーチン大統領が同年9月に突然、前提条件なしの平和条約締結を思いつきの様に口にしたときには、即座にそれに応えたとは言えなかった安倍首相・日本政府でした。
しかし、報道によれば歯舞群島・色丹島の2島返還に大きく舵を切り、1956年の日ソ共同宣言にも明記されたように、先ずその2島の先行返還としながらも、面積が大きく軍事施設も設置された国後島・択捉島の返還は事実上断念したようにも映ります。
ここに至るまでの北方領土について振り返ってみました。
日露和親条約
日本側から見た「北方領土」は先にあげた4つの島を指しています。
これらの島について日本とロシアが初めて成文化した取り決めが1855年の日露和親条約です。
この条約では、日露の国境は択捉島とその北東の得撫島の間と定められています。
このときには樺太(サハリン)については定められず、両国の共有する場所となっていました。
今までの日本政府の見解は、この条約を基にしておりこの時点で北方領土は日本の領土と見做しています。
樺太千島交換条約
次が1875年に結ばれた樺太千島交換条約です。
この時には、日本が樺太の領有権を放棄し、逆に千島列島を譲渡されました。
この条約では、占守島から得撫島に至る島々のことを「千島列島」と呼称していました。
この条約に則って、日本は「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は千島列島ではない」とする立場に立脚していま
す。
ポーツマス条約
続いてが1905年のポーツマス条約です。
日露戦争に勝利を収めた日本が、樺太の南側を領土として得ました。
その後の第二次世界大戦において、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいました。
しかし日本の敗戦が濃厚となった1945年8月8日に、突如ソ連はこの条約を破棄すると、樺太や千島列島、満州へと攻め込みました。
この動きは、樺太の南側や千島列島をソ連が領有することを、連合国内で認めたヤルタ会談の秘密協定に基づいたものとされています。
同年8月15日に日本は降伏しましたが、その後もソ連は千島列島への武力侵攻を続けて「北方領土」の占拠を行いました。
現ロシアでも「北方領土」は戦争の結果手に入れた領土だとしています。
サンフランシスコ講和条約
戦後の1951年に日本は西側連合国との間に「サンフランシスコ講和条約」を結びました。
この条約において日本は、第二次世界大戦前に領土としていた台湾や朝鮮、南樺太、千島列島の放棄を認めます。
当時の日本の代表だった吉田首相は「歯舞、色丹は千島ではない」と説明し、択捉島と国後島に関しては「前から日本の領土」とするに留めました。
方や当時の外務省の見解は、1951年10月に「放棄した千島列島に国後島、択捉島も含まれる」と答えるなど一貫していない状況があり、日本の中でも「千島列島」の定義に齟齬が生じていました。
日ソ共同宣言以降
その後の1956年に「日ソ共同宣言」が発表しました。
これによってようやくソ連と日本の戦争の状態が終ったこととなり、国交も回復されることになりました。
このとき北方領土については、ソ連は歯舞群島、色丹島の「二島返還」のみを主張、日本は「四島返還」を求め平行線でした。
そこで政治的な妥協として、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本へ返還することに同意するが、それは平和条約の締結の後とする」という表現となりました。
このまま報道が示すように、歯舞群島、色丹島の「二島返還」で決着することになれば、旧ソ連・ロシアの思惑通りの結果となったと言えそうです。
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