有楽斎として高名
織田長益(おだながます)は、織田信長の実弟に当たる武将・大名ですが長益より、後年の号・有楽斎として知られている人物です。
武将としてよりも茶聖と呼ばれた千利休に師事した茶人として、後に自ら有楽流を起こすなど風雅を好んだ文化人としての印象の方が強いかもしれません。
しかし天下人であった織田の血縁者として、時代を生き抜いたある種のしたたかさも備えた人物だったと思われます。
信長の嫡男・信忠に近侍していながら、自らは本能寺の変を生き延びた長益の生涯を調べてみました。
本能寺の変での 織田長益
長益は、天文16年(1547年)に織田信秀の十一男として生まれました。信長とは一回り程離れています。
長益は信忠が元服すると近侍を務めたとされ、信忠の補佐として甲州の武田攻めに従っています。
長益は天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所御にありました。わずかな手勢しか引き連れていなかった信忠は観念して自刃して果てたとされていましたが、このとき長益は安土へと逃れて生き延びたことから、巷では卑怯な行いだと非難されたとも伝えられています。
一説には信忠から嫡男の三法師の庇護を前田玄以とともに託されたため、自らは自刃せす逃げ延びたとも言われていますが定かではありません。
秀吉の御伽衆へ
本能寺の変を生き延びた長益は、信長の次男であった信雄に仕えるようになりました。
この間に豊臣秀吉の権勢が強まり、信雄が徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いを挑んだ際には、長益もこれに従って蟹江城の合戦
や下市場城の攻めに従軍しました。
この戦が膠着状態に陥ると、長益は家康と秀吉の和睦の交渉も務めました。
長益は天正18年(1590年)に秀吉の国替えの命に従わずに信雄が改易されると、その後は秀吉の御伽衆として豊臣に仕えたとされています。摂津に2,000石を与えられ、この時に剃髪して有楽斎を名乗りました。
大阪の陣での長益
慶長5年9月(1600年10月)に家康と三成とが争った関ケ原の合戦においては、長益は家康の東軍に与して嫡男の長孝を従えて従軍ています。
小勢ながらも西軍の主力の小西・大谷・石田・宇喜多勢と干戈を交えると、長孝が戸田重政を、有楽斎も蒲生頼郷を討ち取る武功を挙げました。この功から戦の後に長益が3万2,000石、長孝が1万石の領地を得ました。
しかしその後も長益は姪に当たる淀殿に従って、豊臣の臣下として大阪城への出仕を続けました。徳川との大坂冬の陣でも穏健派として二の丸玉造口の守り付き、また徳川との和睦交渉にもあたりました。
続く大阪夏の陣では徹底抗戦を叫ぶ主戦派を抑えるには至らず、大阪城を退去して京へ移りました。
それまで大阪城にあった長益は、徳川に豊臣の内情を伝える役割も果たしていたものと考えられています。
今も残る茶室如庵
その後、京に隠棲した長益は茶人としての生き方を選び、その地で茶道の有楽流を創始しました。
京の建仁寺の正伝院に建立された長益の茶室・如庵は現在でも国宝に指定されており現存しています。
茶室として国宝の指定を受けているものとしては、他には千利休の「待庵」と小堀遠州の「密庵」だけとなっており、当時の文化を今に伝える貴重なものとなっています。
長益は元和7年(1622年)に京において75歳で死去しましたが、兄・信長や甥・信忠とは異なりこの時代としてはかなりの長寿といえる年齢でした。
織田の名を背負いつつも、武よりも文を選んだ人物が長益でした。
この記事へのコメントはありません。